群集の人
坂口安吾
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)斑猫蕪作《はんみょうぶさく》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)時々|恁《こ》んな
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)そいつ[#「そいつ」に傍点]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ガチャ/\
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雑沓の街は結局地上で一番静寂な場所であるかも知れない。斑猫蕪作《はんみょうぶさく》先生は時々|恁《こ》んな風に思ひつかれることもあつたが、兎に角斑猫先生はアッサリと銀座裏のアパアトへ引越してきた。行方杳として知れず――つまり斑猫先生は風のやうに消息を断つて、ひそかに雑沓の街へ隠遁したわけであつた。これで清々したと先生は考へた。
先生は独身で通したので、もともと一人ぽつちであつた。特殊な団欒を持たないので、紋切型の社交が殊更に五月蠅《うるさ》く感ぜられ、齢と共に沁々と孤独なる喜びが身に沁み渡るやうであつた。幸ひ停年制に由つて大学教授を止すこととなつたので、これを機会に五月蠅い世間と交渉を断つ決心をつけた。結局先生にとつては、孤独こそ泉のやうに滾々《こんこん》と親密の涌き出るもので、他に安んじて身を休める場所はないやうであつた。果して、孤独に浸つてみると、なんとなく透明に似た憂愁が心持よく感ぜられた。
孤独には雑沓の街が好もしい。其処では各の人々がお互にアンディフェランでノンシャランで、各の中に静かな泉を溢《みなぎ》らせ乍ら、絶えざる細い噴水を各の道に流し流し行き交うてゐる。一本の散歩路《ブルバル》は結局無数の散歩路《ブルバル》であつて、そこでは無数の逍遥家によつて織り出される無数の泉が各の無関心な水流を爽やかに吹き流し、この人波の蠢くところ雑沓の道は、つまり最も物静かな透明にして音のある斯る偉大な交響曲に近い。それ故ここでは、人間本来の温かさが甚だ素朴に身に触れて感ぜられるのであつた。
昼も夜も先生はなるべく群衆の中を歩き廻るやうにした。同じ一人ぽつちでも、つくねんと部屋に閉ぢ籠ることは、或る意味で結局饒舌であり五月蠅いものだ。それは雑沓にひき比べて寧ろ大変騒然たる濁つた思ひさへする。部屋そのものの狭さのやうに其は狭少で冷酷で、虚無へまで溶けさせてくれるやうなあの雑沓の温い寛大さが足りない。そのために先生はなるべくならば陰鬱な部屋の窓から黄昏の空の動きやパラパラと降る星のあかりを眺めないやうにして、逍遥に疲れた時は花やかな喫茶室へもぐり込んで皿やフォークのガチャ/\と鳴り響く音に白い心を紛らすやうにした。
そして又街へ出ると、ある時は飾窓《ウインド》を覗き乍ら寧ろ往来の邪魔物のやうにノロノロと歩いてみたり、又或時は素敵な敏捷さで人波をグングン追抜いてみたり、又或時は流されるままに漂うて同じ道を戻つてみたり其他様々な態度を用ひた。又或時は逍遥の群衆から二三の人を選び出して、乗物で見えなくなるまで追跡したりすることもあつた。老若男女を問はず若干の好奇心や好感の動いた場合にすることであるが、それとても無論軽い其場限りの悪戯で、その人々の印象を明日の日に残すことさへ稀であつた。そして人波の散る時分、賑やかな街も余程もう黒ずんで人間の数よりも自動車の数が目立つて多くなる時分に、先生も街を捨てて住居へ帰つた。雑沓の余韻が消えるまで先生は部屋の中でボンヤリしてゐて、それから数枚の頁をめくつて軈《やが》て電燈を消すのであつた。
ある夜のことであつた。
かなり夜更けてもう人波の散りかけた頃であつたが、先生は不思議な青年に目を止めたので、なぜともなくその後をつけることにした。尤もその青年はそれほど風変りなわけでもない。ただ夜更には、行人といへば、多く吹溜りの屑のやうに零《こぼ》れ残つた三々五々の連れ立ちであるのに、この青年は一人ぽつちで、それも至極淡々と羨ましいほど心なく、恍惚として静かな足を踏み流してゐる。ただそれだけのことであつた。先生はここに一人の肉親を見出でたやうな懐しい思ひがしたので、ふと一瞬に後をつけはじめたわけであつたが、暫しのうちに先生も亦道行く我を忘れてゐた。
青年は有楽町でも止まらなかつた。日比谷をも素通りしてヒッソリとした濠に沿ひ尚も緩やかに歩むのである。やがて片側に厳《いか》つい建築の立ち並んだ辺りも通り過ぎて尚も暫く歩いたかと思ふと、さういふ建物に挟まれた一つの道へにはかに曲つた。そこはかなり広さもあるアスファルトの並木路で、人気なく死んだやうに静かであつた。それから青年はさういふ道を幾曲りとなく曲つて、軈て遂にやや明るさの花々しい電車路――それとても睡むたいやうに朦朧とした、もはや殆んど人気ない山の手の道であるが、兎も角も電車通りへ立ち現れ
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