て、そして俄かに、折から疾走してきた一台の自動車を呼び止め、それに乗つて瞬くうちに走り去つてしまつた。全くそれは一瞬にして已に見えなくなつたのである。
 先生もはじめて我に返つた。随分遠い所までウカウカ歩いて来たものだと思つた。そして見廻したところ、そのへん一帯の何物も先生の嘗て見知らぬ場所であつた。自分も空車を止めて早速にも帰りたいと考へたが、生憎通つた数台の自動車は客を載せて疾走する慌ただしい車で、アッケなくブウンと唸りを引いたまま行つてしまふと、暫時《しばらく》のうちは運悪く右も左も車が途切れて、空虚な侘しい道のみが線路を無気味に光らせ乍ら其処に残つてゐただけであつた。
 そのうへ道のあちら側に小さくあるが巡査の姿を認めたので、先生はどういふものかギョッとして、直ぐさま振返り、今来た同じ路を歩いて帰ることにした。その路は、それは次第に邸宅の並んだ睡つたやうな街になつて、門燈の奥手の方に黒く大きく建物が輪廓だけの塊りとなつて見えたのである。
 やがて幾曲りかするうちに、今迄よりはやや広いひどく立派な並木路へ出た。恐らく八間ほどの道幅であらう。時々鈴懸の隣り合せに伊達なこしらへをした街燈があつて、そこだけの葉を円く照らし、潤んだあかりを落してゐた。折から一台の自動車が走つて来たが、咄嗟に呼び止める意欲も忘れてゐると、自動車も勧誘せずに唸りを残して忽ち小さく消えてしまつた。
 暫く歩いて行くと、いきなり道端に沿うて細長く建てられた赤い煉瓦の洋館があつた。かなり大きいのでオフィスかと先づ思つたが、いやいや、之はアパアトであると直ぐ先生は判断を改めた。勿論一つとして燈りの洩れようとしないその建物を見上げ乍ら先生は近づいてきて、いよいよ建物の前に差しかかると不思議に入口が開け放してあつて――おや開け放してあると思つた時には入口の前を通り過ぎてしまつてゐたが、たしかに開け放しであると思つた。ところが建物の中央にある正面入口に来かかつたので今度は良く見ると、それは併《しか》し余りにも堅く閉されてゐて、上に取りつけられた門燈がひどく間の抜けた光を扉の背面へ鈍く滑らせてゐた。
 併し愈その建物を通り過ぎようとして其の末端の入口へ差しかかると、それは矢張り確かに開け放しであつた。そのうへ、二階の廊下にあるらしい燈火《あかり》が極く薄く階段の欄干《てすり》を、それも下部は全く闇で上部だけをボンヤリ照らし出してゐた。奥の方にその部分の階段だけが浮いて見えたのである。矢張り先刻《さっき》の入口も開いてゐたのだと先生は思つた。そして奇妙に懐しい思ひがしたので、一寸《ちょっと》覗くやうに一足踏み寄つて首を入れて見た。すると――階段。さう、たしかに。目より上に、その部分だけ薄くモヤ/\と照らし出された階段だが、変にシインと物思ひに耽るやうな階段であつた。先生は駆立てられるやうに、なんだか昇つてみたいやうな――寧ろ触つて……いや、兎に角何かしてみたいやうな変な気がした。そして四辺《あたり》へ目をやつて全く人気ないのを知ると、跫音《あしおと》を殺して中へ這入つた。
 先生は一段毎に階段と自分の心と測り合せるやうにして静かに昇つた。石造建築に籠つた冷気が妙に鋭く、併し澱んで液体のやうにヌルヌルと手頸に滑り顔になだれるやうであつた。先生は五六段もして立止り上を窺つてみたが、なんだか恐い気持がしたので、今度は振向いてヂッと佇んだ。耳のところに数字みたいのものが鳴り響いてゐるのである。併し全てが闇と同じくらゐヒッソリすると、先生はその場所へ今度は腰を下した。上から落ちる光は少し上手《かみて》を照らしてはゐるが、恐らく先生の背中までは届いてをらぬであらう。そして先生の前方は無論闇の塊りであつた。ただ開け放された入口の矩形を通して、ボウと照らされた路面が矢張り矩形に切り抜かれて見えた。街燈は左の方にあるらしく、鈴懸の影が左から右へ落されてゐた。
 すると一人の酔漢が、ヨロヨロして左から右へ通つて行つた。まづその影法師が蹌踉として左から右へ延びて行くと、やがてヨロヨロした本人が三歩くらゐで矩形の中を通り過ぎて行つたのである。すると今度は右の方のかなり離れた光から来るらしい朦朧として細長い影法師が、路面の遠くをサッと一廻りして消えてしまつた。
 酔漢の跫音が遠距《とおざ》かるまで、何かヂインとする闇の呼吸が聞えてゐた。ところが跫音が愈聞えなくなつてしまふと、何かしら不安な胸騒ぎがソワソワと何だか後悔のやうに感じられてきた。をかしな厭に侘しい建物へ迷ひ込んで了つたものだ。早速立去らなければなるまい。それにしても、何だか身動きすることにも圧迫を受けるやうな厭な重苦しい建物であると先生は思つた。どうも変テコな工合に気掛りになつたのである。
 するとだしぬけに時計の音が――それは確
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