かに時計の音だと先生は斯う決めたが、下の何処やらで、尤も上の何処やらかも知れなかつたが、ボンとただ一つだけ鈍く鳴つた。一時か?――恐らく時計の一時であらう。アッケないほど一つだけ鳴つて、それきり鳴り止んでシンとしてゐたので、ハッとして思はず欹《そばだ》てた先生の心へは呆れ返るほど寒々とした闇の冷たさが押し込んできた。背筋を伝ふやうにして冷いものが走つたのである。そして何だい今のは時計かと先生は思つた。
 併し斑猫先生はそんなにいい気にをさまつてゐられなかつた。今度はかなり近い所に、たしかに人の呻くやうな低い声が聞えてきたのだ。低く幽かであるけれど、これはかなり長く続いた。聞きやうに由つては建物の何処からともとれるやうな、変に平べつたい充満した声であつた。
「…………」
 意味がハッキリ聞きとれないのだ。聞きとれぬうちに又消えて、又沈黙がきた。先生は身体全体が冷えてきて、タラタラと無気味なものが皮膚《はだ》を流れるやうであつた。ヂッと耳を澄してゐると、果して又、今度は、
「――お母さん、お母さアん……」
 ナ、なあんだい。チッポケな子供の声ぢやないか。してみると、大方こいつは夫婦者アパアトかも知れやしないと先生は判断した。そして、知らないうちに堅く欄干《てすり》へ掛けてゐた手に力を籠めて、グイとやうやく起き上つて深呼吸をした。そして跫音を前よりも一層殺して、どうやら矩形の外側へ出ることが出来たのである。それは実に蕭条とした街路であつた。圧しつけられてゐた胸と頭が急にふやけて、千切れるやうにガンガンと夜空の向うへ膨れあがるやうであつた。お母さん。俺だつても昔は子供であつたと先生は思つた。
 半町もしてホッとした。電車通りへ出て、自動車を拾ふことが出来たのである。
 銀座裏のアパアトへ帰つてくると、成程、今迄は気付かなかつたが、其処にも階段があつて二階の光が矢張りボンヤリ上の方だけ浮かせてゐるのだ。平気な顔をして二階へ昇つてしまつた。
 部屋へ戻つて確かに一層ホッとすることが出来た。まだ幾分混乱が鎮まらなくて忌々しいので、早速ねちまはうと先生は決定した。そして直ぐピヂャマに着代へてベッドへもぐらうとしたら、そしたら――
 そこに変な奴がねてゐるのだ。
 平べつたくて有るか無いか分らないほど痩ポチなのでそれまでは分らなかつたのだ。吃驚《びっくり》して、否応なしに面喰つて、押してみたら手応《てごたえ》なくグラリと動く。逃げようかと思つたが思ひ返して揺さぶりながら、
「起きたまへ、君は……」
「…………」
 先生は泣きたくなつて、いきなりグイと手を差込んでそいつ[#「そいつ」に傍点]の骨ばつた肩を押へ、頸筋へ手を廻して引ずり起さうとしたら、全く棒を掴むやうにアッケなく細々と痩せた頸で、それが又死んだやうに冷たかつた。先生はドキンとして、併しもはや詮方なく怖々とそいつ[#「そいつ」に傍点]の顔を捻ぢ向けてみると、グッタリと眼を閉ぢて、土色の死色をして冷たくなつてゐるのは、ああ、さう、自分――さう、確かに斑猫蕪作先生自身であつた。
 先生は今度こそ本当に逃げようとしたが、打ちのめされたやうに、もう足が動かなかつた。
「助けて……」
 尤も声も出やしなかつた。暫くしてから、腹部に針金のやうに張つてゐた棒みたいのものが漸く少し弛んできたので、引きずるやうな足を曳いて逃げようと焦つてみた。どうにでもして逃げ出したいと焦つたけれど、さういふギゴチない身体のもどかしさと同時に、もうどうすることも出来ないのだといふ絶望が火の玉のやうに胸に籠つて、やがてそのへんの肉が粉のやうに砕けてゆくのが分つた。先生は絶望のしるしに手で頭を抱へようとしたが、うまく頭を押へることが出来ずに、手は大きな波のうねりとなつて頭の前後左右へグラグラとだらしなく舞ひめぐり、しつかと押へることが出来ないのであつた。
 もう逃げられないのだし、逃げたつてどうにもならないのだと分ると、先生は子供のやうに顔中を泪で汚してしまつて、フラフラと歩いて行つてベッドの上へ重つて倒れてしまつた。そして痩せこけた冷い奴の肩をつかんでそいつ[#「そいつ」に傍点]の胸へ顔を当て、本当にウォン/\泣きじやくつてしまつて、
「お母さん、お母さあん、お母さんてば……」
 それだけがボキャブラリイであるやうに、一生懸命にさう言つて泣き喚かずにはゐられなかつた。その喚きを何べんも何べんも繰返してゐるうちに、熱くるしい泪の奥へ声も身体も意識もだんだん縮んで細くなり、消えていつてしまふのが感じられた。

 翌日、重い頭を抱へて目を覚した斑猫先生は、何よりも先づ爽やかな雑沓へ慌しく飛び出して、明るい蒼空を時々見ながら、昨夜のことは、あれはみんな夢であるといふ風にしか思ひ出すことが出来なかつた。



底本:「坂口安吾全集
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