ぢやない。詩の奥儀がすべてゞ、俳句も短歌も詩であるから文学であり、その詩声(ウタゴヱ)によつて読者の魂につながる、文学が詩がさうである如く、俳句も短歌もさうである以上に何があらうか。
 文学は型をきめて判断してはいけないものだ。一般読者は文学の理論などに患はされず虚心に読み、自分の心にふれるものだけに惹かれるといふ読み方だから却つて正しく小説の心にふれてゐることが多く、批評家や文学の専門家は型にきめて判断するから作者の魂にふれることが少いものだ。色々の文学がある。人間が種々様々である如く様々で、あらゆる人の文学などといふものはなく、ある人に愛され、ある人に嫌はれる。それでいゝではないか。ラムプにはラムプの効用があり、椅子は椅子の効用によつて存在する。このラムプは腰かけることができないといふのは暴論だ。
 特別日本の文学者批評家の珍論は、この小説は面白いから不マヂメだといふ。面白さ自体には不マヂメなどあるものぢやない。作者の思想や魂が不マヂメだといふことはある。然し面白さが不マヂメだと云ふ人々は、たぶん涙はマヂメで笑ひは不マヂメだと思つてゐるに相違ない。然し涙はマヂメなものでも誠実なもの
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