々に戯作性が拒否せられるのはそのせゐだと私は思ふ。思想が深く、苦悩が深かければそれに応じて物語も複雑となり、筋に起伏波瀾がなければ表現しきれなくなるから、益々高度の戯作性、話術の妙を必要とする。日本の文学者は多く思想が貧困であり、魂の苦悩が低いから、戯作性もいらない上に、戯作者を自覚する誇りも持つことができないのである。
 私はだいたい日本の綜合雑誌といふものは奇妙なものだと考へてゐる。専門的な知識は専門家にだけあればよろしく、そのためにその方面各々の専門雑誌があればよろしい。専門的な知識を綜合して、それをみんな身につけた人物が出来上つたにしたところが、そんな人間が何物なのだらう。各人はその道に於て専門家でなければならぬが、各方面に専門家である必要はない。教養として各方面に一応の知識のあることは悪いことではないから、綜合雑誌がそのために存在するなら、もつと通俗性、読ませるものでなければならぬ。現在の綜合雑誌を全部通読する人は小数で、殆んど虚栄的な存在ではないかと疑られる。
 だいたい教養としての知識は雑誌的であるよりも単行本的でなければならぬと思はれるが、日本の出版界、学界は不思議なと
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