た逞しさがある。坂田七段は呉清源に気分的に敗北し、勝っている碁を、気分によって自滅している。呉清源には、気分や情緒の気おくれがない。自滅するということがない。
 将棋の升田は勝負の鬼と云われても、やっぱり自滅する脆さがある。人間的であり、情緒的なものがある。大豪木村前名人ですら、屡々自滅するのである。木村の如き鬼ですら、気分的に自滅する脆さがあるのだ。
 それらの日本的な勝負の鬼どもに比べて、なんとまア呉清源は、完全なる鬼であり、そして、完全に人間ではないことよ。それは、もう、勝負するための機械の如き冷たさが全てゞあり、機械の正確さと、又、無限軌道の無限に進むが如き執念の迫力が全てなのである。彼の勝負にこもる非人間性と、非人情の執念に、日本の鬼どもが、みんな自滅してしまうのである。
 この対局のあと、酒にほろ酔いの本因坊が私に言った。
「呉さんの手は、当り前の手ばかりです。気分的な妙手らしい手や、シャレたような手は打ちません。たゞ、正確で、当り前なんです」
 本因坊が、現に、日本の碁打ちとしては、最も地味な、当り前な、正確な手を打つ人なのであるが、呉清源に比べると、気分的、情緒的、浪漫
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