カリカチュアが沢山現れ、直接武士のカリカチェアがない場所でも、本源は武士の生活に対立して発してくる場合が多い。
 ちよつとした口論の果が、首を切られてから歩いてみせなければならない、といふ、全くもつて馬鹿の骨頂と言はざるを得ぬ結論に到達する。こんな愚かな命は何百あつても足りないといふ気がするが、これが全然冗談でなく、真実無二の生活として行はれてゐた厳たる環境があつた。実際武士といふものは、ユーモアのない世界である。笑つて済ませる余裕すらない。
 僕は時々考へるのだが、昔の武士に今の漫才でも見物させる。ズラリと何百人威儀を正して見物席に控えてゐる。漫才の女が男のオデコをたゝいたり、男が尻ふりダンスを始めても、全然笑はぬ。呟きもなく、咳もない。妖怪じみた眺めだらうと思ふ。
 武士だつて漫才みれば笑ふよ。そんなことがあるものか、と言ふ人があらうけれども、然し、首を切られてから歩いてみせなければならなかつた、といふのは、ツマリ、かういふ笑を持たないカミシモ姿の世界なのだ。かういふ姿で実在してゐる。
 ヨーロッパ人に言はせると、日本人ぐらゐ笑ふ国民はない。オクヤミの時でも笑つてゐる、と言ふけれど
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