なぜなら、主婦は、亭主の死を如何に激しく希ひつゞけてゐたゞらうか。彼女の祈願は、たゞ、それのみではなかつたか。
 稲荷の山へ見廻りに来て、その足でこゝへ立寄る香具師《やし》の親分があつた。すると主婦は化粧を始め、親分は奥の茶の間へドッカと坐つて、酒をのみだすのであつた。親分が酔ふ頃になると、子分はみんな帰つてしまふ。すると親爺も、主婦の目配せで追ひ払はれて、二階の碁席へ、例の通り、うゝ、うゝ、うゝ、と唸りながら這込んでくる。額に青筋を立て、押黙つて、異常な速度で、碁を打ちはじめる。あゝ、又、変な客が来てゐるのだな。人々は忽ち悟るのであつたが、何人が曾《かつ》て親爺に同情を寄せたであらうか。一片の感傷を知り、一本の眉をしかめる人すらもなかつたのだ。否、むしろ、その宿命が当然だ、と、人々は思ひ込んでゐたのであらう。
 これは碁客ではないけれども、伏見で石屋を営んでゐる五十三四の小肥りの男は、一月に必ず一度飲みに来て十五六時間飲み通すのがきまりであつたが、それは、まるで、親爺がまだ死なないことを確めに来るやうだつた。

       四

 四柱推命の占師が関さんに頼まれて卦を立てた。僕の所へ来て、関さんの卦ばかりはどこを取上げて慰めてやる所もない。天性の敗残者で、これから益々落目になる一方だと言ふのであつた。これ以上落目になるとは、どんなことだらう。だが、僕も、それが事実だと思はずにゐられなかつた。
 碁会所の常連全部見渡しても、関さんだけが頭抜けて無邪気な男であつた。だが、どん底の生活では、無邪気な奴ほど救はれない。関さんは、碁会所の常連達の悪評の的であつた。常連の一人に相馬といふ友禅の板場職人がゐて、山本宣治の葬式の先頭に赤旗を担いだ男で、勇み肌の正義感から時々逆上的な喧嘩をしたが、凡そ憎めない男がゐた。無邪気な点では関さんと甲乙なく、僕の言ふことは大概理解してくれたのだが、関さんとだけは打解けてくれなかつた。
 関さんは商売よりも自分の楽しむ方がまづ先だ。お客が来ると大喜びで、お茶のサービスもそこ/\に、一戦挑む。忽ち夢中になつてしまふ。敗北するや口惜しがること夥しく、今のは怪我敗けだ、ほんとは俺の方が強いのだといきりたつし、勝てば忽ち気を良くして、あんたは下手だと大威張りである。万事が露骨で角がある。おまけに勝負に夢中だから、お客が後から詰めかけて来ても、お茶も
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