、コップ酒を呷つてゐる。祇園乙の検番の杉本老人は色話にだけ割込んできて、あとは端唄を唸つてゐる。脳病のインチキ薬を売つてゐる二人組の一方は印絆纏、一方は羽織袴で、戸の開く音に必ずギクリとするのであるが、喧嘩の相手か刑事を怖れてゐるのであらう。これも稲荷山を商売に四柱推命といふ占をやる男は、常連の誰彼の差別もなく卦を立てゝみては、あれも悪い、これも悪いで、とても気の毒で正直に教へてあげられん、と言ふのだが、成程多分さうだらうと僕も思はずにゐられなかつた。この占者は茶色の髭を生やして、まだ三十だといふのに五十五六の顔をしてゐた。やつぱり参詣の人を相手に茶店の二階を借りて可視線燈といふ治療をやつてゐる老人は、人殺しの眼付をしてゐるし、水兵あがりの按摩がゐて、片目は見えるのであるが、この男の猥談には杉本老人も顔をそむけてしまふのだつた。百鬼夜行なのだ。けれども、百鬼夜行の統領が僕だつた。関さんは一同から杯を貰ひ、お愛想を言ふかと思ふと、絡んだり厭味を言つたり、親爺だけはたつた一人黙つてゐて、海老のやうにグッタリまるくなつてゐる。さういふ中に主婦だけが、軍鷄《しゃも》のやうなキイ/\声で、ポンと膝を叩いたり、煙管を握つた手を振り廻して、誰にも劣らず喋つてゐる。
 たらふく飲み、たらふく睡り、二十円ぐらゐで生きてゐられるのであつた。考へるといふことさへなければ、なんといふ虚しい平和であらうか。しかも、僕は、考へることを何より怖れ、考へる代りに、酒をのんだ。いはゞ、二十円の生活に魂を売り、余分の金を握る度に、百鬼の中から一鬼を選んで率き従へて、女を買ひに行くのであつた。
 この連中のましな所は、とにかく、主婦を口説かなかつたといふだけだ。え、おつさん。早く死んだらどうかいな。あとは引受けるよつてに。かういふ露骨な冗談を、僕は毎日一度はきいた。誰かしら、それを言ひだすのであつた。親爺は牙をむきだして、ヒヽヽヽと笑ふ。必ずしも、腹を立てゝはゐないのだ。いや、諦めてしまつたのだ。然し、諦めきれるであらうか! とはいへ、今は、この冗談がこの食堂の時候見舞のやうなものだ。棺桶に片足つゝこんでおいてからに、ほんまにしぶとい奴つちやないか。却々《なかなか》、いきをらんで。この冗談がユーモアとして通用し、笑ひ痴れてゐるのである。之は、たしかに冗談だつた。然し、又、たしかに、冗談ではなかつたのだ。
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