、知らない人は碁の先生だと思つてしまふ。知らないお客は大概僕より遥に強い連中だから、僕も慌てた。そのうちに、あの碁会所はヘボ倶楽部だ。大変な先生がゐるといふやうな噂がたち、ヘボ倶楽部とは巧いことを言ひやがる、と一同感心、カラ/\と大笑したが、気がついてみると、とにかく、自分のことである。これだけ常連が揃つてゐるのだから誰か一人ぐらゐ世間並なのがゐさうなものだが、と顔見合せ、さういふことになつてみると、常連の中では、とにかく僕が一番強いし一番若い。先生、しつかり頼うまつせ、といふやうなわけで、僕も大志をかため島といふ二段の先生について修業を重ねることゝなつた。寝ては夢、さめては幻、毎日々々、たゞ、碁であつた。部屋の中には忽ち碁の書物が積み重り、新聞の切抜が散乱し、道を歩く時には碁のカードを読んでゐる。碁会所へ来るので顔見知りの特高の刑事に、ヤア、大変な勉強ですな、と四条通りで肩を叩かれる。散歩といへば、古本屋で碁の本を探すだけで、京都中の碁の古本は、あらかた僕が買占めたやうなものだ。その代り、二ヶ月ぐらゐたつと、とにかく、田舎初段に三目ぐらゐで打てるやうになつた。近所にチヌの浦孤舟といふ浪花節の師匠がゐて、この近辺では一番強く、ヘボ倶楽部を吹聴した発頭人であつたが、まもなく再び碁会所へ現れるやうになり、僕も互先で打つやうになつた。
 東京を捨てたとき胸に燃してゐた僕の光は、もう、なかつた。いや、この袋小路の弁当屋へ始めて住むことになつた時でも、まだ、僕の胸には光るものが燃えてゐた筈だつたのだ。隣りの二階は女給の宿で赤い着物がブラ下り、その下は窓の毀れた物置きで、その一隅に糸くり車のブン/\廻る工場があつた。裏手は古物商の裏庭で、ガラクタが積み重り、二六時中拡声器のラヂオが鳴りつゞけ、夫婦喧嘩の声が絶えない。それでも北側の窓からは、青々と比叡の山々が見えるのだ。だが、僕には、もう、一筋の光も射してこない暗い一室があるだけだつた。机の上の原稿用紙に埃がたまり、空虚な身体を運んできて、冷めたい寝床へもぐりこむ。後悔すらもなく、たゞ、酒をのむと、誰かれの差別もなく、怒りたくなるばかりであつた。
 毎晩十二時に碁をやめる。常連の中の呑み助は、これから階下で車座を組んで十二銭の酒をのむ。山口といふ巡査上りの別荘番は、アル中で、頭から絶え間もなく血がふきだし、それを紙で拭きとつては
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