が覚めて、彼はクラヤミへ突き落された。十六の年から忘れていた寝小便をたれてしまったのである。
 なんたる大量であろうか。フトンいっぱいの洪水だ。そして、なんたる悪臭だろうか。それは何年ぶりかで存分に晩酌をとったせいで、尿に臭気がこもっているのである。彼は神様の使者にふんづけられて魂をぬかれたとき、いつも自分一人だけが悲しい思いをしなければならなかった少年の頃を痛切に思いだしていたのである。少年時代への切実な回想とともに、寝小便も十六歳へもどったのかも知れなかった。
 起き上ると、サルマタや腹のまわりに溜っていた小便がドッと流れて、フトンの下へあふれ出ようとした。彼はあわてゝシキフをもたげたが、それから先は為《な》す術《すべ》を失い、途方にくれて、クッという声をたてると、手ばなしで泣きだしてしまったのである。
「どうしたの? お父さん」
 物音をきゝつけて、半平が襖をあけて顔をだした。事情をさとると、物に動ぜぬ半平も、しばしは茫然たるものであった。
「ふーん」
 半平は感心して一唸りしたが、もう気をとり直してニコニコしていた。
「そうかい。お父さん、オネショの癖があったの、言っといてくれりゃ、夜中に起してあげたのに」
 彼はちッとも騒がなかった。
「オイ、起きろよ。坊介クンも、才蔵クンも、もう起きる時間だよ。お父さん、お風呂へはいッてらッしゃい。その間に片づけておくからね。ハイ、歯ブラシ。ハイ、タオル。それから、ハイ、石ケンとカミソリと。オフトンの上へユカタもサルマタも脱いどいて行くんだよ。とりかえといてあげるからね」
 正宗菊松は一々品物をうけとり、言われた通りハダカになって、ただ、うなだれて、部屋づきの浴室へはいった。
「ワア、臭い。馬みたいに、たれ流したもんじゃないか」
 と雲隠才蔵の叫び声がきこえたが、
「よけいなことを言うんじゃないよ。ボクが女中に云ってくるから、キミはサルマタを買ってきなさい」
「よせやい。朝ッパラからサルマタ売ってる店があるもんじゃねえや」
「いけないよ。秘書ともあろうものが、ワガママは許されないよ。ヤミの天才で名をうった雲隠才蔵ともあろうものが、朝の八時にサルマタが買えなくってどうするのさ。宮ノ下でも、小田原でも、どこまででも行って、買って戻ってきたまえ。我々は職務を果しましょうよ。ねえ、そうでしょう」
 そこはヌカリのない面々のこと、そうか、仕方がねえ、とつぶやいて、サルマタ買いにでた様子。半平の報せで、女中たちが跡始末にきたが、ブツクサ云わず、笑いもせず、処置をつけているらしく、その裏には半平の手際の妙があるのであろう。
「お父さん、こゝへユカタ置いときますよ。サルマタも、新しいの買ってきました。さすがに、わが社の至宝、才蔵クンは神速なるもんですよ。今度、月給あげてやって下さいな」
 食事となっても、正宗菊松はひたすら黙然、顔もあげられない。
「お父さん。元気をだして下さい。ツルちゃん。キミ、お父さんの肩をもんであげなさい」
 ツル子がハイと立ち上って、せッせと肩をもんでやる。ツボも心得て、ミゴトなお手並である。快感。思わず夢心地になりかけると、フッと溜息がでて、涙がにじんでしまうのである。
「ボクも、ノブちゃん、肩をもんでもらいたいね」
 ハイと云って、ノブ子も半平の肩をもむ。
「アア、いけねえ。フツカヨイだ」
 坊介は頭をガクガクふって、
「オイ、才蔵。オレの肩をもめよ。ボンヤリしてたって面白くもなかろう。お前の手でも我慢してやるから、若いうちはコマメにやりなよ」
「よせやい」
「ボンヤリ睨めっこしてるよりも、一方が後へ廻って肩をもむのが時にかなっているッてことが分らないかな。だから、淑女にもてない」
「うるせえな」
 午前十一時。時間がきて、一同は自動車にのりこんで、スルスルとマニ教の神殿へ。
 白衣の人たちに迎えられて、玄関を上ったところへ、昨日と同じように二列に並んで坐らされる。
 やがて、彼方からの鈴の音が近づくと、
「ミソギイ」
 と、若い女の一声。白衣の男がサッと二人立って、板戸を両側にひらくと、御幣を捧げた女と、その左右に鈴を頭上に打ちふる二人の女。いずれも白衣に緋の袴である。
 サッと御幣を一となぐり、又、一となぐり。身をひるがえしてパッと去る。彼女らの去るを送って板戸の閉じた音に頭をあげると、昨日の神の使いが正面にチャンと坐っているのである。
 いきなり、スックと立った。朱をそそいだ鬼の顔、ワナワナと怒り立つ肩。ダダダダと前へ踏みすゝむ気勢に、ガバと伏して、頭上に両手をすり合わせ、
「マニ妙光。マニ妙光」
 正宗菊松、寝小便で魂をぬかれたとはいえ、昨日の怖しさ、これを忘れる筈はない。神の使者はダッと踏みとどまると、大きくのけぞって一呼吸、ハッシとかゞむ。
「ガアーッ」
 
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