そのくせ、神前をさがると、彼らの態度は一変して、お父さん、常務と、宿の玄関で靴のヒモをといてくれ、部屋へはいると服をぬがせ靴下までぬがせてくれる。常務に対する敬意至らざるなく、温泉につかれば、半平まで、お父さん、背中流しましょうか、などと云う。みじんも彼らの使命を裏切るような隙を見せることがない。そして彼らは、正宗菊松が蹴倒され、踏んづけられて、神様に魂をぬかれた珍劇などには、見たこともないように、一言もふれなかった。たゞ、あたりに人影のなかったとき、半平がふとすり寄ってギュッと菊松の手を握って、
「今日の成功は、キミが蹴られたオカゲだよ。殊勲甲だよ」
 と云った。そして口笛をふきながら、夜の温泉場をひやかしに、姿を消してしまったのである。
 唐突に感謝をこめてギュッと手をにぎり、女性のようにやわらかく笑いかける半平が、又しても、彼は怖しかった。今日はこれでよかったが、ひとたび失敗すれば、容赦なく彼をクビ切り、叩きだしてしまうに相違ない残忍無慚な魂が裏にひそめられているようである。得体の知れぬ青二才に一身をまかして道化の主役を演じさせられている身のつたなさが、やりきれない。然し、嬉々として仕事に没入する彼らの溢るゝ生活力は驚異であった。
「畜生め。どうしてくれたら腹の虫がおさまるのか」
 やにわに飛び起きて、ねているチンピラ共を蹴倒し、踏みつぶして、魂をぬいてやりたいと思った。この世には悲しい思いがあるものである。

   その四 寝小便の巻

 正宗菊松はふと目がさめた。襖《ふすま》を距てた隣室へ誰かゞ戻ってきたのである。酔っ払って、ドタバタと重い跫音がもつれている。
「半平の奴、ひどすぎるじゃないか。なにも女の子を隠しだてすることはないよ。なア、坊介、そうだろう。ツルちゃんが好きなら好きでいゝけどよ、ノブちゃんまで一緒につれだして隠すことはないよ。なア」
「うるせえな。なん百ぺん言ってやがんだい。やくんじゃないよ」
 こう雲隠才蔵をたしなめたのは坊介である。
「チェッ。女房ぐらい、もったって、威張るんじゃねえや。落着いたって、偉いことにならねえや。半平の奴、ツルちゃんと仮の兄妹だなんて、鼻の下をのばしていやがら」
「よさねえかよ。やきもちやきめ」
「チェッ。お前も三十|面《づら》さげて、あさましい野郎じゃないかよ。秘書なんかにされて腹が立たないかッてんだ。どこの国に三人も秘書をつれてブラブラしている重役がいるかッてんだ。秘書だったら秘書同志じゃないか。婦人秘書をこッちへ渡しゃいゝじゃないか。独占てえ法はねえや。アン畜生、ヤキモチやいてやがんだ、なア」
「うるせえな。ヤキモチやいてんの、お前じゃないか」
「チェッ。お前は目があっても節孔《ふしあな》同然だよ。半平の奴、ふてえ野郎じゃないか。明日東京へ戻って指令を待て、なんて、尤もらしいことオレに言ってやがるよ。なんとかして、オレをツルちゃんから遠ざけようてえコンタンなんだ。働かすだけ働かしやがって、なめてやがるよ、なア」
「うるせえなア。お前はヤミ屋の仕事に打ちこんで月給もらッてりゃいいんだよ。オレは写真を撮りゃいゝんだ。女の子の一人二人よろしくやるだけの腕がなくッて、ヤミ屋がきいて呆れらア」
「チェッ。見ていやがれ。東京へ帰れッたッて帰るもんかよ。半平の野郎め、ギョッと言わせてくれるから」
「アッハッハ。勝手にしやがれ。しかし、仕事を忘れるな」
 年のせいか、坊介は落着いていた。しかし簡単に年のせいでは済まないことを、正宗菊松は肝に銘じてもいたのである。半平や天草次郎の落ちつきは、どうだ。事に当って身命を投げうっている精励ぶりは、どうだ。そのうえ、二人の女を両手に花と、シャク/\たる余裕をも示しているとすれば、一流の奥儀をきわめた達人と云わねばならないのである。隣室でねむる筈の半平は、まだ戻っていないらしい。
 半平と才蔵と、女のことでもめるとは見物じゃないか、と正宗菊松はほくそえんだ。決闘でもやらかして、奴ら、自滅するがいゝや。彼は明日の悲しさに胸がつぶれそうだったが、こう思うと、いくらか光明がさしたせいか、熟睡することができたのである。
 正宗菊松は十六の年まで寝小便をたれる癖があった。色々の薬をのんだがキキメが見えず、修学旅行などはズッと欠席していたが、いッそ人中へだしたら意地ずくで何とかなるかも知れないと、両親のさとしを受けて、十六の年に悲愴な覚悟をかためて修学旅行にでた。覚悟のほどが効を奏して、それ以来寝小便がとまったのである。
 もともと彼は苦労性で、つまらぬことにクヨクヨ悩む反面には、だらしなく安心するというウスバカじみた性分があった。ここ二日間のつもりつもった心労のせいで、彼はダラシなく睡りこけてしまったのである。
 言うに言われぬ快感のさなかに、ふと目
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