と、神様のイブキをかけた。それから、ダダダ、ダダダ、とひとり八方に荒れ狂う跫音。やがてピュッと何物か切る音とともに神の使者が着《ちゃく》したらしい。
「お立ちイ」
 という声がかゝって、みんなが頭をあげた。正宗菊松だけは、そう心易く頭があげられない。
「もう、いゝんだよ、お父さん」
 と、今日も半平にさゝやかれて、ようやく頭を上げた。
「正宗は、今日は敬神の念を起しておるな」
 と、神の使いが鋭く見すくめて云った。
「ハイ」
 正宗菊松は万感胸元につまって、たゞ、たゞ、平伏するのみ。
「実はです。お父さん、非常に感動したもんで、今朝はオネショやっちゃッたんですよ。これがお父さんの悪い病気でしてね。会社の重役やりながら、寝小便をたれているんですよ。子供のオネショと違って、お酒をのむから臭いッたらないでしょう。おまけにバケツ一杯ぶちまけたぐらい垂れ流すでしょう。秘書たちがね、こればッかりはツライッてね。旅先じゃア、お父さんの恥だから、気をつけているんですけど、ゆうべ、ボク、疲れちゃって、夜中に起すのを忘れちゃッたんですよ。だもんで、今朝、やっちゃったんです。神様の御力で、これを治していたゞけると、ボクたち救われるんですけどね。治していたゞけますかしら」
 神の使者も眉をよせたようである。けれども、正宗菊松の顔、形を見れば分ることだが、泣かんばかりに悄然とうなだれて、慙愧《ざんき》の念、身も細るほど全身に現れている。半平の奇怪な言葉に、ひとすじの偽りもないことは、明々白々《ありあり》あらわれている。すべてを観察して、神の使者は、うちうなずき、
「長年邪神について、邪念が髄に及んでいるから、正宗のカラダに様々の障碍が宿っているのに不思議はない。マニ妙光様は宇宙の全てゞあるから、この教えにもとづいて魂をミソイだならば、寝小便などは苦もなく治ってしまう。まだマニ妙光様直々のオサトシをうけるわけにはいかぬが、別室で浄めてつかわすから、正宗だけ、ついて参るがよい」
「ボクたちも浄めて下さいな。お父さんと同じようにしてもらわなくッちゃア、あとあと親孝行にサシツカエがあるんですよ。なんてッたって、たゞもう、モーローと平伏ばかりしているでしょう。別室で一人になったりなんかすると、益々あがッちゃって、目も見えず、耳もきこえなくなるんですよ。とても心配で、ほッとかれやしないよ、ねえ」
「アア、ホント。常務が浄まる時にボクたちも浄まッとかないと、なんだ、不敬者だの、汚らわしいのと、うるさいからな」
 とフツカヨイの坊介が頭髪を前へたらして、蒼ざめた顔をしかめた。
「ウチの常務は、寝小便をたれた後と、神様の前へでた時だけは、平伏悄然モーローとしているけれども、その他の時はガミガミ口うるさいッたら。ボクたちも一しょに浄まらなくッちゃア、身がもたないよ」
 坊介、フツカヨイとはいえ、さすがに芸術家である。胸に秘めたライカに物を云わせたい一念、必死であった。
 しかし、神様の使者は厳格であった。
「お前たちは、まだ別室で神事をうけるに至っておらぬ。お前たちが、秘書の役に立たぬにせよ、俗界と神界のことは別の儀である。それすらも、わきまえておらぬ。不敬であるぞ」
 ハッタと睨んだ。
「正宗菊松、立て」
 声に応じて、立ち上ろうとした。しかし、魂をぬかれたせいか、腰も、足も、フヤラフヤラと力がこもらない。彼は立とうとして、両手をつき、気があせって、ハッ、ハッと病犬のように舌をたらして息をついた。
 彼は本当に神様にすがりたかったのである。寝小便も治したかったし、チンピラ大学生どもをギョッと云わせる智恵と勇気をほしかった。ありていに云えば、マニ教を蹴とばし、神様を踏んづける力が欲しかったのである。つまり、万感胸につまって、たゞ、切なく、あせるばかりであった。
 彼はようやく立ち上って、よろめいた。オットット。半平、坊介、才蔵、ぬかりなくサッと立って、支えてやる。
「だから、言わないことじゃない。目もくらみ、耳もきこえやしないんだからね。心臓マヒでも起されちゃア、第一、失業問題だからね。ごらんの通りですから、ボクたちも一しょに、至らない者ですが、ついでに浄まらせて下さいな」
「まったくだね。お父さん、会社じゃア相当パリパリしてるんだけど、神様の前じゃア、カラだらしがないねえ。このたよりない様子じゃア、子供として、見棄てちゃ、いられないね。一しょに浄まらしていたゞきたいですねえ。いゝでしょう。たのみます」
 神様の使者はつぶさに観察して、正宗菊松のダラシなさ、いさゝか呆れもしたが、けっして狂言のたぐいではないと見た。けれども、神界は厳格なものである。彼は白衣の若者たちを目でさしまねいて、正宗菊松を支え、半平たちから距てさせた。
「たとえ俗界にいかようなツナガリがあっても、霊
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