現代の詐術
坂口安吾

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)列《なら》ばない
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 私は戦争まえまではヤミという言葉を知らなかった。知らないということは情ないことで、私の青年期はヨーロッパでは前大戦後の混乱をへて、どうやら立ち直りかけたころ、ニュースに文学にインフレや道徳の混乱はウンザリするほど扱われていたが、戦争と死、戦争と陰謀、そんなことは考えてみても、インフレとヤミ、戦争になると百姓がもうかる、小説でよんでもピンとこない。全然読まないと同様、素通りしていたようなものだ。文学だの人間だの、人間探究のと云いながら、そして、戦争という大きないくつかの事件に就て史書をよんだりしながら、戦争の裏側の人間生活にヤミという奇怪な取引関係がつきまとっていることを想像すらもできなかった。
 大化の改新によって口分田という制度ができた。すると脱税や使役をのがれるために戸籍をごまかしたり、逃亡をやり、税のかゝらぬ寺領や貴族領へのがれたり、または私田を寄進したりする。こうして荘園が栄え、貴族栄花の時代が起り、農民は又、さらに脱税のために管理者とケッタクして、武家時代をもたらしたという。
 そういう歴史を読みながら、戦争まえの私には、やっぱり激しくひびかない。
 中世に座というものが起った。猿楽座とか銀座もたぶんもとはその意味であろうが、職業組合みたいなもので、つまり自分らの権利を他からまもる同業者の徒党的結成であり、この土地は自分らの販売の縄張りというものを一方的に勝手につくって、それを侵害する他の業者を迫害する。
 こう書くとまるで無頼漢の徒党と同じことで、あっちのマーケット、こっちのマーケット、みんな縄張りがある。パンパンガールにまで縄張りがある。こういう風に言うと、職業組合をヨタモノの縄張りとはと怒る人があるかも知れない。私も昔はこんな風に悪くは解釈しておらぬ。こういう中世の組合はマルクス先生の資本論という本などにも頻りに現れる言葉であるから、私も襟を正して謹聴し、かりそめにもヨタモノ的結合などゝ邪推したためしはなかった。
 まったく戦争という奴は、人間ばかりじゃない、学問だの教養だの、一切合財、カミシモをぬがせてしまう。サムライも戦争になるとカミシモをぬぐけれども、サムライというヨタモノと違って、学問などゝいうものはヨタモノではない、生れながらの紳士だと考えていたから、カミシモをぬぐ筈はないと安直に思っていた。これが、つまり平時の心、昔の人はうまいことを言った。タタミ水錬というのである。私のようなのがタタミ水錬で、カミシモを疑うことを知らない、戦争を知らないからで、知らない、ということは、情けないことだ。
 私はオヤオヤこれはヒドイと思ったのは、国民酒場の行列で、ヨタモノが前の方を占領し、タライ廻しにする。けれども、このときは、まだ気がつかず、これはヨタモノのやることだと軽く考えていた。そうじゃない。
 愈々タバコが少くなり、どこの店でも時間をきめて売るようになると、未明から行列する。私など、七時に売るというのに、四時から行列して買えない。勇猛心をふるい起して三時に並ぶ。ようやく一つ買える。けれども二三日すると、もう二時に列《なら》ばないと買えなくなってしまう。
 なぜ私が買えなかったか。私はつまり隣組共同戦線に敗れたのである。朝の三時といえば全然まっくらで、列んでいても、私の前後の人間のうごめきだけしか分らない。ともかく然し私は二十番目ぐらいにいる。みんな見たところヨタモノじゃなく、オジイサン、オバアサン、オカミサン、女学生、私をのぞくとヨタモノみたいなのは一人もいないから安心だと思っていると、そうじゃない。夜が明けると来るわ来るわ、後へ並ぶ人間より前へ割込む人間共がはるかに多い。
 オバサン、こっちよ、私たちの隣組、こゝよ、と言うと、アヽ、そうか、案外うしろの方だね、などゝ言いながら、前後左右から一人三人、たちまちにして私は百番目以下になってしまうのである。
 こゝに至って、私は座の起源というものに新認識を加え、これはヨタモノの縄張りと同じものである。もっとも、組合や座がヨタモノの集りだというのじゃなくて、人間窮すればみんなヨタモノである、ヨタモノの縄張りの精神に帰する、要するに、然し、窮しているからだ。
 タバコが豊富にあれば、隣組座というようなものができて行列の座、まことにこれ座ではないか、文字通り座席である。座や権利を主張するには及ばない。
 昔も窮していたのだろう。徒党を組んで共同戦線をはらないと、やって行かれぬ境地にあったに相違なく、然しその結成の由来に於てはパンパンガールの縄張りと変りのある筈はない。
 だから読者諸君、銘記したまえ、戦争以来、日本は目下、中世なのである。つまり我々は父祖伝来ゆずり伝えたカミシモをつけ、もう電燈もガスも鉄道もある、道義も人情も仁愛もある、法律もあり統制された秩序もある、だから中世じゃない、こう考えて、そのカミシモを疑うことを知らなかった。
 このカミシモが今日まで伝承完成するに千年ほども時間がかゝっているのだから、これはもうカラダの一部分だというぐらいに誰しも考えていたのであったが、アニはからんや、戦争が二三年つゞくと、千年の時間がアッサリ消えてもとに戻り、我々はもうカミシモを身につけていないことに気がついたわけだ。
 カミシモは時間によって、はかるべからず。私が時間を疑うことを知ったのは、戦争のせいだ。私も青年時代はエチカだの中観論などを読んで、過去も現在も未来も疑うことができるが、疑うことのできないのはある一つの実在だけだというようなことを尤もらしく考えることを鵜のマネしたが、私は今はもう唯物論者であり、然し、唯物論者も、歴史や時間を唯物的に疑うことができる、イヤ、疑わねばならぬ、そんなことはテンデ考えてもみませんでした。まことに、どうも、知らないということは情けない。私はつまり戦争を知らなかったからである。
 目下の我々のモラルや秩序や理念だけでは、人間は窮すると中世になる。この逆転を支えるだけの実力がない。
 共産党は元々カミシモを持たないから、卒直単純に中世で、共産党の組合の指導寸法というものは、一方的に座の利益を主張するものだから、やっぱり隣組のタバコ座やラク町のパンパン座と本質に於て変りはない。
 私は中世は好きではない。隣組のタバコ座は好きではないのだ。私がかのオバサン座に常に惨敗のウキメをみたヒガミではないのである。
 然し、窮すれば、中世になる。この転落を防ぐ真に実力ある方法は、目下のところ、モラルや理論ではどうにもならず、窮しなければ中世にならない。それ以外には外に方法もないように見える。
 窮すれば中世になるということは、察しなければならないということで、だから目下、ヤミ屋は中世ではなく、常にブルジョアには中世の精神は分らない。不思議にも、ブルジョアならぬ私、常に窮していた私が、尚かつ平和時代に於ては中世の精神をさとるに至らなかったとは、まことに意外千万だ。
 私は然し、常に窮しながら、あえて中世に節を屈しなかった私の方に、いくらか取柄があるのだと考える。
 一方的に自分の利益だけを主張する、ということには、これを自分一人でやる場合には非常に勇気がいるのである。ところが徒党を結んでやる場合には、全然勇気がいらない。
 孔子もキリストも古代の思想で、これは人間一個自立自存の思想であるから、勇猛心を代償として尚かつ我利我利妄者であるべきかという豪傑と仁義に関する思想であり、さすがに中世ともなれば進歩したもので、勇気などは始めからもうアパパイで、狡智、策戦、たちどころに徒党を結んで、商人は商人の座、工人は工人の座、パンパンはパンパン座、オカミサンは隣組座、みんなこれをやる。
 キリストが原人的であるのに比べると、孔子はよほど社会人的であるけれども、徒党精神の味方ではない。
 私も中世を好まない。中世よりも古代、原人の倫理を好み、中世に復帰するなら古代に、まず原人に復帰したいと考える。カミシモをぬぐなら、カミシモだけぬいで中世にとゞまるよりも、フンドシまでぬいで原人まで戻ろうというのが私の愛する方法だ。
 私が未明の二時三時に行列して一個のタバコが買えなかったころ、隣組座の横暴もあったけれども、又一方には百個のタバコの五十個を店主が知人やオトクイに流すということも公然のことであった。然しこのころはタバコ屋はまだヤミをやってはいなかった。ヤミ値で売ってるわけではなく、知人への義理人情、オトクイへの義理人情、そういう性質のものであった。
 戦争中はまだ旧秩序への復帰ということが前提されていたから、オトクイはやがて再びオトクイとなる、知人はやがて恩を返す、そういう未来への打算があったのであるが、今はもうオトクイは破産し、知人もヤミ屋となり、旧秩序への復帰の前提が失われたから、みんな中世の座をくんだり、野武士となったり、それぞれ中世の方式通りに活躍遊ばされておる、クモは生れながらにして巣をくむが、人間は戦争に負けると、おのずから中世となる。蜂須賀小六はもう八方に野武士から一国一城のあるじとなりかけているのである。
 パンパン座やマーケット座や隣組座や従業員組合座が中世的であるとすれば、ヤミ屋は個人的である点で、まだ、いくらか古代的であり、原人の勇猛心を必要とする。
 けだし古代というものは、人間がその原罪とか悪と戦ったもので、人間はすべて罪人であり、救世主に縋らずして自らの罪を救い得ぬ迷える羊であるけれども、中世の徒党精神には原罪がきれいに切り放されており、自らの罪を自覚する必要もなく、たゞ自分の権利を主張すればよい。だから従業員組合座もマーケット座も原罪の自覚などに関するところは毛頭ないが、ヤミ屋の方は古代だから罪と争う。大いに勇猛心がいるのである。
 ヤミ屋がいゝか、座がいゝか、いったい、どっちがいゝのであるか。両方ともに、よろしくない。しかし、ともかく、黒白をつける必要があるではないか。

          ★

 狸御殿の殿様は法廷でうまいことを言っている。殿様曰く、自分は商品を納める約束で金を貰った、たまたま当にしていた紙がすぐ手にはいらず、約束を履行しないうちに捕まったゞけで、もうちょッと時間があればやがて約束を履行し得た見込みであり、したがって、合法的な商取引であり、たまたままだ約束を果していなかったゞけのこと、サギではない、と。
 然し法廷というところはトノサマの胸を解剖して心理を判断するという直接の方法を用いる術のないところで、人間の心理は、こう思った、思わなかった、それを直接つかまえ突きとめるという術はない。
 だから側面から調べる。トノサマがどこそこの倉庫に紙があると云った、その倉庫に紙があり、それをトノサマが動かす力があったか、もしあればトノサマはいつか約束を履行するつもりであったかも知れない。倉庫に紙はなかった、そうなるとトノサマは怪しい。けれどもトノサマは倉庫に紙があると信じていた。そして信ずべき条件が揃っている、たとえばトノサマは誰かにだまされ、そこに紙があるものと思いこまされていた、そうなるとトノサマはサギ師でなく商取引の約束をまだ果していなかった、それだけだ、という弁解が成立つ可能性がある。
 世耕事件の静岡の糖蜜問題がこのデンの好見本で、世耕氏へこの情報がくるまでに有村とか、佐伯、宮川、米本、渋谷、前田、永田などとリレーがあり、結局モトは矢島松朗というサギ師の組んだ仕事で、矢島のいう砂糖は実在するものではなかったが、三宅男爵という架空の人物や一条公爵などゝいう名が利用されて効果をあげ、人々はその品物が実在するものだと信じていた。つまり矢島だけがサギ師であり、他の人々はサギにかゝった被害者だということになる。
 このサギの性格は、又、これを利用するに大いに便利で、つまり倉庫に商品がないと分っていても、あると信じる条件がありさえすれば、自分にサギの意志はなかったと弁解できる性質のもので、世耕情報以来ブ
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