ローカーの暗躍がものすごかったというが、要するに商品は実在しないのである。然し、私は実在すると思った、あの男からきいたから。その男は又、私は別のあの人からきいた、私も実在すると思っていた、みんな、こう答える。実在すると思いこんでいたとなればサギではないと言い張る方便があるから、人からきいた、そして信じた、みんなカンタンに信じた信じたと言う。
だからブローカーは現物など問題じゃない、情報を信じることが大切で、情報がうまく出来ていれば金になる、この連中は法律の知識もあり、罪にならない条件をなんとか用意する策戦はぬかりなく心得ている。
昔からありふれたのに手金サギというのがあったが、近ごろのは全額前払い、そう変ったゞけなのだろう。
昔は物が有り余っていたから、商人は売りこむのに苦心サンタン、たいがい勘定はアト払いで、手金などタカの知れたものだから、こんなサギはお歴々はおやりにならない。ちかごろは前代議士とか、取締役社長、そういう然るべきトノサマがやる。
トノサマとは何ぞや。だから私が前章に於てルル申し述べてある通り、目下は中世で、マーケット座、隣組座、野武士、群盗の世界であって、もうトノサマはおらぬ。残念ながら人間もおらぬ。組合員はおるけれども、人間はおらぬ。中世に逆転したが、古代には逆転しなかったからである。
マーケット座の社長が代議士に当選すれば言うまでもなく代議士ではないか。
マーケット座の社長は落選したが、これに類する社長が代議士に当選したのは今までに例の多いことであり、選挙というものはバカバカしいものだ。
然し代議士に限らない。万事センデン、粗悪品でも一応はセンデンでうれる。商業もそうであり、売薬、映画、化粧品、小説も御同様、みんな一応代議士と変りはない。
然し、いくらセンデンしても、本当に粗悪な商品は結局うれなくなる。蚊の落ちない蚊トリセンコウ、火のつかないマッチ、こんなものは人は買わない。配給だから泣寝入り、目下中世であるから、政府も地頭と変りはなく、申すまでもなく野武士の一味で、火のつかないマッチを買わせる腕力があるのである。
隣組座のオバサンたちには石ケンやマッチの粗悪品はすぐ分るけれども、代議士の粗悪品は分らない。婦人代議士がとたんに三十何人もできあがる。各人一票の公平なる選挙、あんなヨタモノが代議士になるとは、あゝ、なんたることか、そんなバカな大衆の投ずる一票の責任をも余が負わねばならぬか、と云って怒っても仕方がない。
社会生活とはそういうものだ。オレはエライと思う。大衆はバカだと思う。ちょッと理窟屋の日本人はすぐそう考えて、世をガイタンし、拙者の選ぶものが正しいとくる。たちまちファッショである。
オレが果してなぜエライのか。少しばかりケイザイの本をよみ、歴史をよみ、政治に就て信ずるところがある。だからエライ。狸御殿のトノサマの陳述と同じことで、胸を切りひらいて、エライかエラクないか、判定するという術はない。
そんなアイマイなことよりも、オレよりも大衆がエライという事実を知ることが大事だろう。古代の農民が税や使役と戦い、悪戦苦闘、浪流逃亡、戸籍をごまかし、それが結局に於て権力を左右する結果となっている。貴族が栄え、やがて衰え、武士が起った。農民の脱税行為が実は日本の歴史を動かしていた。大衆とは、そういうものだ。
狸御殿のトノサマも、そのうち代議士ぐらいになるかも知れぬ。トノサマがなるというのは大衆がさせることでもある。トノサマだから参議院かも知れぬ。それでいゝではないか。なぜいゝか。大衆が選んだ、そして、そうなったから。
自分一人がエライと思うな。オレはエライ、大衆はバカだ、そんなことを言う奴は、私はキライだ。そういう奴はすぐ道徳的、一人よがりの顔をし、権力をふり廻し、小役人根性を現し、ファッショとなる。誰もエラクはない。
戦争中は四王天というユダヤ退治の中将が日本一の票数で代議士になった。それでいゝではないか。大衆は権力に追いまくられ、その命にたゞこれしたがい、左へ右へ、たよりない。けれども結局は権力にもみぬかれている大衆が、権力をうごかしている、そういう姿が現れてくる。歴史というものゝ姿である。
大衆とは何であるか。政治も知らぬ。文学も知らぬ。国の悲劇的な運命も知らぬ。然し、大衆は生活している。
ウマイモノが食べられない。そんな日本は負けてなくなれ。大衆はそういうものだ。日本が亡びてもウマイモノがたべたい。あの人と一緒にいたい。
その大衆は又、あの戦火にやかれ、危く生き残って、黙々、嬉々たる大衆である。彼らの生活力は驚くべきものだ。この欠配に、どうして生きているか。生きているではないか。誰も革命は起さない。平然と生きている。生きられる筈はないではないか。額面通りなら、どうしても、死なねばならぬ。政治などは何のたしにもならぬ。平然として生きているものは大衆である。
オレはエライ。大衆は何たるバカだ。そういう者は再び東条英機となるだけだ。その部下のモロモロの小役人になるだけなのである。
正しい思想というものは、オレと大衆の優劣感のあるところから生れたものではあり得ない。大衆の代りにブルジョアがあってもならぬ。つまり、たゞ人間、キリストは原罪をとき、孔子は生活の原理に仁を見た。ともかく人間から出発しなければならぬ。何千年逆転してもかまわぬ。モロモロの何千年の時間、カミシモはすべてムダであったと見なければならぬ。
大衆は原人であるか。原始人ではない。又、原人でもない。つまり中世的原人だ。貴族の権力に追いまくられて脱税逃亡、戸籍をごまかし、供出をごまかし、あらゆる手をつくしてゴマカシまわり、徒党をくんでタバコを買い占め、パンパン座をつくる、根は中世的原人で、電燈とガスがなければローソクと薪で間に合い、人生それだけのものときまれば、それだけで済む、自ら電燈もガスも発明することのない中世紀人である。
然し、インテリも、文明知識をひそかにタノミとしていたが、戦争に負けてみると、やっぱり中世の人間にすぎないことが明かとなった。
やっぱり中世にもインテリはいたし、善人もいた。ユダヤ博士はキリストに呪われ、善人どもは親鸞の一喝をくらい、善人なおもて往生をとぐ、危いところで素懐を遂げさせてもらうことができたという始末なのである。
ユダヤ博士というのは、まア今日では哲学博士になるのだろうが、親鸞の危く往生をとげつゝある善人というのは、今日で云うと、やたらに眉をしかめて、道義のタイハイを怒り咒い、ヤミ屋を憎み、パンパンを憎み、エロを憎み、グロを憎み、ストライキを憎み、聖人たるものこう憎みが多くてはこまる、けれども憎まずにいられぬ。善人ともなれば心は大いなる憂いに閉され、悩みの休まる時はない。
新憲法で、サムライと町人の区別がなくなり、宮様もなくなった、みんな人間だ、天皇も人間だ、みんなそうだと思っているが、みんなそうだと思っていやしない。
先ず新聞を見る。サギの容疑者、前代議士何々氏とある。ピストル強盗容疑者何々、とある。善いことをした人でも、会社員以上は何々氏、運転手なら何々君、とある。
そこで正義派のインテリ先生がフンガイに及んで、氏と君の区別は何ぞや、と怒る。悪漢に氏とは何ぞや、悪漢はヨビステにしろ、代議士でもヨビステにしろ、善良な市民はみんな氏をつけろ。
なぜ犯罪者をヨビステにしなければならぬか。犯罪は憎むべきである。然し、罪を犯さぬ人間がおるか。隣組座もパンパン座も神の座席に於ては同じ罪人ではないのか。ヤミの米を食うことも罪ではないか。万人がヤミの米を食う、そうしなければ生きられない、そうしなければ生きられないなら罪を犯してもいゝか、それは罪ではないのか。
あらゆる人間というものが、あらゆる罪人を自分の心に持っているものだ。小平も樋口も我々の心に棲んでいる。時にはいさゝか突拍子もない事件がある。ある母親がママ子を殺し、実子と共に、ママ子の肉を三日にわたって煮て食ったという、こんな犯罪はアタシたちはやらないね、こんな鬼はアタシの中に住んでいませんよ。然し貴嬢の仰有《おっしゃ》るのは犯罪の問題じゃない。誰でも人間の肉が食いたいと思うわけじゃない。食用蛙の嫌いな者はどうしても食いたくない。食慾を感ぜぬ。これは味覚の問題だ。犯罪の問題ではない。犯罪は誰の心にも住んでいる。
人間はみな同じものだ。総理大臣が片山氏なら、盗姦殺人小平氏、死刑になっても小平氏でなければならぬ。東条英機氏でなければならぬ。
人間性は万人に於て変りはない。罪人に於ても聖人に於ても変りはない。この自覚の行われざる社会に於て、いかなるカミシモをつくりだしても、折あれば中世の群盗精神へ逆転する、それだけのものにすぎないのである。
★
私はいわゆる人情という奴が好きでない。私はタバコの行列で人情的横流しと隣組座の横暴になやまされたが、私の近所の病人の爺さん婆さんのやってる一番小さなタバコ屋、配給がよそが五百、少くて百というのに三十だの二十しかないような店、こゝの老人がどういうわけだか私に同情して、ある時私にソッと云った。いつでもおいで、キンシをとっておくから、と。そして、どこが悪いのかネ、と云ったが私は返事をしなかった。
私は病んではなかったけれども、戦争中はまったく栄養失調だったかも知れない。何一つ特配というものがない。主食にカボチャや豆ばかり食い、一ヶ月に一度イワシを食べさせてもらえば大したものだという状態で、タバコ屋の老人は私を病人と思って大いに同情をよせてくれたものらしい。
私はタバコは欲しかったが、同情にすがるだけの勇気がない。悪意ならまだ貰ってやるという気持になれるが、人情にはついて行けない。ヤミ値なら、私の日頃用いるところだけれども、尤も当時はヤミのタバコを買うほどの金もなかった。
このタバコ屋の老人に関する限り、私への同情は極めて純粋なものだった。私がどこの馬の骨だか、住所も名前も職業も知りやせぬ。ただ病人らしさと貧乏らしさに同情してくれたゞけの、恩を売って為にするというようなところの何もない性質のものだった。
ヤミ値なら応じうる、為にするつもりならそれに応えることによって取引しうる。純粋な同情にはこっちがハニカミ、恐縮するばかり、一般に文士などという私らの仲間はみんなそんなものじゃないかと思われる。
私が親切な気持に応じなかったものだから、その後、風呂へ行く老人などにたまに会うことがあると、私をジロリと見て顔をそむける。まことに、つらい。
私はこういう素朴な人情は知性的にハッキリ処理することが大切だと考える。人情や愛情は小出しにすべきものじゃない。全我的なもので、そのモノと共に全我を賭けるものでなければならぬ。さもなければ、人情も愛もウス汚くよごれているだけのこと、そういう気分的なものは、ハッキリ物質的に換算する方がよろしい。
だから私はこういう人情の世界に生きるよりも、現今のような唯物的な人間関係の方が生き易い。タバコを横流しにするなら、人情的に公定価で売るよりも、ハッキリとヤミ値で売ってもらう方がいゝ。どっちも罪悪であるが、善人的に罪悪であるよりも悪人的に罪悪である方がハッキリしており、清潔である。
法律は公価で人情で流す方を軽く罰するであろうが、神前の座席に於ては軽重のある筈はなく、善人的であることによってわが罪をも悟らぬというその蒙昧は、これも亦、さらに一つの罪であるから、私はハッキリ悪人的に犯罪する方が清潔でいゝと考える。蒙昧は罪悪である。善人的蒙昧は罪が深い。罪は常に自覚せられなければならぬ。
人が自らの利益のみを一方的に主張するには勇猛心がいる。然し徒党をくんでこれを為す時には勇気はいらぬ。隣組座、マーケット座、この組合的結合には、やっぱり善人的蒙昧がある。他の立場に対する省察、自我、我慾、罪への批判、全般的情勢に就ての公平なる観察、それらのものは、もはや必要ではない。それらのものが有るならば、人は勇気なくして我慾
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