のであり、だから、その在り方は芸術というよりも生活的なものだ。
昔はラモオだのバッハだのモオツァルトが日常生活の舞踏の友であった。元来は生活的なものだ。それが今日は生活を離れた典雅なものとなって、時に人々は、その典雅が芸術の本質だと思いがちだが、これが、つまり、老人のクリゴトと同じ性質のものだ。
現代の若者たちは狂躁なジャズのリズムにのってカストリの濛気をフットウさせカンシャク玉がアバレルようなアンバイ式に一向に芸術的ならぬ現実的エロを味い、甚だもって高遠ならざる恋をさゝやく。
この現代の狂躁のみをこめたようなジャズの悪音響も、やがては典雅となる筈である。現代そのものは常にまったく典雅ではない。現代は歴史ではなく、生活それ自体だからだ。生活自身は歴史的に観察整理され得ざるところに本領があり、どこの地獄へ流れつくのか見当のつかない曠野の遍歴と自らの何者たるかを知らないバカ者、つまり生活しつゝある人間一匹がいるのみなのである。
歴史と現実をゴッチャにして、現代の貧困などゝ言う奴は、つまり研究室の骨董的老人で、時代に取り残された人、即ち自ら生活せざる愚人であるにすぎない。
歴史的な
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