観察法は現代には通用しないものだ。なぜなら、人間と一口に言うが、いわゆる人間一般と、自分という五十年しか生きられない人間とは違う。人間は永遠に在るが、自分は今だけしかない。そこに現代というものゝ特性があり、生活というものが歴史的な観方と別に現実だけのイノチによって支えられているヌキサシならぬ切実性があるのである。
これを知れば、現代の貧困などゝいう言葉は在り得ない。現代は貧困でも豊富でもない。現代は常にたゞ現実の生活であり、ギリギリの物なのである。
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日本の伝統が、主として偶像的虚妄の信仰であることゝ同様に、外国文学の公式的な移入にも、同様な偶像信仰がつきまとっているものだ。
近ごろの日本文壇では、スタンダールと云えば、何かもう、絶対のように考えられているが、私はおかしくて仕方がない。織田作之助など、自分を二流と云い、スタンダールを一流と云い、二流の中には僕も含まれているらしいが、バカバカしい話である。
私は自分を何流とも考えないが、スタンダールよりも下の作家だとは思っていない。スタンダールの作品は、人間が紋切型で、分りきっていて、退屈で、私はバカらし
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