がこう書くと皆さんアハハと笑いだすかも知れないが、そういう方々の何割かが実は日常かゝる奇怪な論証法を友としておられる筈だ。
これが一般読者ばかりではないのである。批評家が、そうだ。文士にも、そういう方がある。そして読みもせぬ半可通を堂々と発表する。
バルザックとかモウパッサンとかいうと、常に歴史的に批評する。その全作品を読んで、時代的な意味を見る。ところが、同じ批評家が、現代に就ては、一ツ二ツの短篇を読んだだけで、作者全部のものをキメつけてかゝってくるから勇ましい。
現代文学の貧困、などゝ近頃のハヤリ言葉であるが、こういうことを言う人は、すでに御当人が阿呆なのである。
老人というものは、口を開けば、昔はよかった、昔の芸人は芸がたしかであった、今の芸人は見られないと言う。何千年前から、老人は常にそう言うキマリのものなのだ。それは彼らが時代というものに取り残されているからで、彼らの生活が、すでに終っているからだ。
芸術というものは、その実際のハタラキは芸という魔法的なものではなくて、生活でなければならぬ。それが現実の喜怒哀楽にまことのイノチをこめてはたらくところに芸術の生命がある
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