て愉しさうに笑つたりしてゐたかも知れない。けれども太郎さんは私を殴つたりせずに、急にゆつくりと頭の後へ手を組んで、
「ちかごろ食慾が旺盛になつたよ」
なぞと呟いた。
到頭お花さん一家は大阪の親戚を頼つて、そちらへ越してゆくことになつた。尤もそのことでは私は頻りに老婦人の相談を受けたが、生憎これは相談にならなかつた。つまり、その方がいいでせうねと老婦人が尋ねるとその方がいいでせうねと私が答へ、その方が悪いでせうねときかれた時は悪いやうですねと私が答へ、そして結局大阪へ越してゆくことになつたのである。悲しい出来事であつた。
引越しの仕度でごた/\してゐる日に私が遊びに行つてみると、太郎さんが手伝ひにきてゐて一生懸命に荷物の整理をしてゐた。時々必要以上の荒い物音をたてたりしたが、老婦人は何もきこえない振りをして物も言はずにせつせと行李をつめてゐた。お花さんは不在だつた。なんでも太郎さんの顔をみると、まあ丁度いいところへ来て下すつたわ、阿母さんに手伝つてあげてね、あたしはこんなうらぶれた[#「うらぶれた」に傍点]ことは嫌ひよと言つて出掛けてしまつたさうであつた。私も大体に於てお花さんの意見に賛成であつた。そして私は二人の目覚ましい勤労の人々を悦ばしげに眺め、仕事の終るまで壁に凭れて煙草をふかしてゐた。
老婦人は私の訪れによつて幾分勇気を挽回したらしい。時々かなりの声を張りあげて、
「近頃の若い男つて、どうして斯うも甘ちやんでだらしがないんだらうね! 女の言ひなり放題にペコ/\してゐるよ。女に振られるのも無理はないやね。はがゆくつて、みつともなくつて、見ちやゐられねえや、唐変木め!」
なぞと呟いた。かなり颯爽として威勢のよい眺めであつた。けれどもそれから四五分もすると、同じ方角にシクン/\と音がするので眺めると、こんど彼女は泣きぢやくりながら、息をつめて行李へガラクタを押しこんでゐた。私は変化ある眺めのために全く退屈しなかつたのだ。
訣別の日がきた。
太郎さんと私はお花さん親子を東京駅へ送つて行つた。昼の列車だつたのだ。私自身が入場券を購《もと》めたのだから、私は無論プラットフォームまで二人を見送るつもりだつたに相違ない。ところが地下道を通り愈々プラットフォームへ出る階段の下までくると、私は実に私自身にも全く思ひがけない、途方もないことを言つてしまつた。
「ああ
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