#「いたはり」に傍点]の目で彼を眺めてやる代りに、冷静な批判の目で彼の心の隅々まで監視してゐた。それは恋人の目ではない。そのくせ彼女は自分が太郎さんの愛人であることを無批判に前提とし、自分の恋心に就ても毫も疑ひを持たなかつた。彼女はさういふ理知的な恋もありうると信じてゐたのだらう。寧ろ信じたかつたのであらう。けれどもそれは恋ではない。恋は常に盲目だ。お花さんは恋の一歩手前にゐながら、それを恋と信じてゐたのだ。それだから、どうしてもシックリしない情熱を統制しなければならない勝気なお花さんも苦しかつたに違ひないが、太郎さんは尚のこと苦しかつたに相違ない。
「だつて私はどこかへんに隙間があるやうな気がして、心が落付かないわ」
 お花さんは私に言つた。
「私は苛々する」
 彼女は何度さういふ呟きを私に洩らしたかしれない。
 お花さんの阿母《おっか》さんは私の仲良い友達であつた。彼女は子供思ひの善良な母であつたが、同時に変な宗教の信者であつたり能楽が好きだつたりしたので、考へ方が偏狭でお花さんの気持を思ひやることができなかつた。寧ろ太郎さんに同情を寄せ、娘は変質者の狂つた気持でも持つてゐるのでなければ、不良少女の濁つた考へがあるのではないかと心配したりするのであつた。母一人娘一人の生活だから心配は彼女を痩せさせる程だつた。
「花子は女優なんかになつたのがいけなかつたんでせうね」
 彼女は私をおど/\眺めて、まるで怯えきつた様子で言ふことがあつた。
「お父さんが生きてゐたらどう言ふだらう。女はやつぱり女らしいのがいいですわね。女優だなんて派手に気取つてもらうより世間なみの奥様におさまつてもらう方が助かるわ。私は断髪《かぶきり》はきらひよ。見るのも厭らしいんだけど……」
 午前の風が爽やかな時間に、この年老いた婦人は度々私の宿を訪れてきた。年齢の違つた交遊が面映いのであらうが、彼女は塀に凭れて身体を隠しながら、小声で二階の窓の私を呼んだ。娘が苛々して外出してしまつたりすると、身の置場もない苦しさにせめられるらしい。私の宿は欅のこんもりした神社の境内に面してゐたが、私の現れる気配を見ると彼女は欅の陰へ退却して、すつかり照れた顔をして赧《あか》らみながら
「年寄りのくせに、あきれたもんだ」
 と呟いて、私には見えない方を向いて舌を出したりした。
 三度に一度は近所の子供が使者に立つて
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