れを思ふと、絶望ばかりであつた。むしりとり、むしりとつても、目をふさぐ絶望の暗幕をはぎとることができないではないか。
「トキ子さん。立派に死んでお詫びをします」
 それも月並でイヤらしい言葉であつたが、思ふことを言ひきつてしまへば、胸ははれるかも知れない。
「死にたくない、死にたくない、死にたくない。これが僕の本心、全部です。でも、今は、それを乗りきれます。祖国の名に於て、トキ子さんは僕の暴力のイケニヘになつたから、僕も甘んじてイケニヘになるつもりです。祖国なんか、なんだつていゝや。僕はトキ子さんのために」
 トキ子が唇をさしよせた。抱きしめると、胸の中でトキ子は泣いた。
 手を握りあひ、長い夜道を無言で歩いて、トキ子の家の前へくると、トキ子は立ちどまつて顔をすりよせて、
「私、イケニヘぢやないわ」
 全身に熱気がこもり、情感が溢れてゐる。
「あなたを愛してゐました」
 トキ子は全身を安川の胸に投げこみさうであつたが、安川にそれを受けとめる用意がないので、恐怖と羞ぢらひのために、身をひるがへしてわが家へ逃げこんだ。
 安川は追ふことができなかつた。
 それは残酷な言葉であつた。こゝはやつぱり無言のまゝ別れてくるべきであり、さもなければ、例の月並に、立派に死んで、バンザイ、それでよかつたのだ。イケニヘといふことのほかに、人間なんかの在る余地がないのだから。
 安川はノドをしめあげられ、ノドに荒縄をまきつけられて気違ひ馬に引きづり廻されてゐるやうであつた。途方にくれ、益々絶望するばかりであつた。
 何ものゝ喜ぶべきこともない。トキ子の愛情をたよりに、愛情をみやげに、そんな気持の玩弄はできうべきものではなかつた。のたうちまはる思ひだけであつた。
 畜生! 畜生! オレを殺すのはドイツだ。祖国。そんなもの、八ツザキにしてしまへ。
 どうして恋だの愛だのと言ひだすのだらう。日本中が気が違ひ、戦争といふトンマな舞台の人形、たゞ祖国のために飢え、痩せ、働き、死ぬ、ひとつの道具、兵器の一種にすぎないではないか。恋だの愛だのとそんなことを今更言ふとは、ひどい、なんといふことだらう。
 恋は青空、思ひは海、せめてうらゝかな日に自爆したい。そんな気持になりきれないとは切ない。さうなる以外に、手がないのだもの。そのくせ、なれない。空を仰げば、嘘のやうに星があつた。天の川、悲しく汚く、つまらない星空であつた。
 自分とは何だらう。もうそれを考へては立つ瀬がない。ギリギリのところに、ガンヂガラメにつるされ、死神を待つだけだから。

          ★

 その一夜、三人ながら熟睡したといふのは一人もなかつた。
 然し彼らは翌朝はいくらか気分が落ちついてゐた。仕度をとゝのへ、飛行機を見ると、兵隊なみにひきしまつた心になつた。
 尤も彼らはこれから出撃するわけではなくて、いつたん南端の進発基地へ行き、そこでバクダンを吊して、本格的に海を南へ消え去るわけで、その出撃は更に翌日の予定であつた。
 ところが南端の基地へ来てみると情勢が変つてゐる、敵の大船団が行動を起してゐるといふのはどうやら偵察のまちがひらしい、もう暫く様子を見ようといふことになつてゐた。
 一日生き延る思ひは豊醇きはまるもので、これがあつちの基地であつたらトキ子とひとゝきと思はぬでもないが、さうでなくとも安らかでくつろいでゐられる気持であつた。
 その翌日も、又その翌日も翌日も、命令はない。そして先の大船団はどうやら正体のない幻影だつたといふことになり、まア、お前ら遊んでゐろ、さういふことになつたが、するとそこへ八月十五日、基地は放心した。
 三人はわけが分らなかつた。
 生きた、といふ知覚。それを誰より強く覚えたのは三人であつたかも知れない。オイ、本当か、たまたま彼らは外出を許され、町の民家のラヂオをきいた。民家のラヂオは偽物の放送ぢやないかと思つたぐらゐ、日本が負けた、生きた、はりつめた気持がゆるんで、だるいやうだつた。
 真偽をたしかめに基地へ戻ると、基地ではラヂオをきいてゐない連中が多く、こつちの方が却つて半信半疑、まだ防空壕を掘つてゐる連中がゐる始末であるから、やつぱりまだ戦争か、ヒヤリと心が一時に冷えてしまつたが、まもなく連絡の飛行機の往復がはげしくなる。夕方、食堂へ行くと、泣く奴、怒る奴、吐きだす奴、笑ふ奴、負けたことがハッキリした。
 隊長の中尉が、
「イノチがもうかつたぞ。お前ら、どうする。これから、どうするんぢや、オレは知らんぞ。日本中がみんな捕虜かいな。わけが分らん。基地へ問ひ合せても返事がないから、明日基地へ帰るんぢや。そのつもりにしとけ」
「勝手に帰るんですか」
「蜂の巣をついたやうなものぢやないか。もう血迷つてるんだ。こんなところに命令まつてたら、永久の島流しぢや
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