それが心配になってきた。勘定を払う前にあんまり味をほめすぎるのは考え物だ。たかが、バイじゃないか。第一、あなたがいけないよ。雷様がへソを食うように、あんなにうまそうにモリモリ食うものじゃアないね。人が見ればタイとイワシの見分けを知らぬ田吾作だと思いますよ。バイの借金を背負って春日山へ帰るわけにもいかねえや」
 彼は女中をよび、部屋の片隅に身を隠すようにしてヒソヒソと勘定を訊いていたが、にわかに再び狂笑して、女中を突きとばし、部屋の中を踊りはじめた。
「あれだけ食って、三百五十円! 大皿山盛り四ハイたッた三百五十円! アッハッハッハッハア!」
 その狂態は、バイを食して五体に熱気陽発したものの如くであった。余はそれを見すてて旅館をでた。程なく放善坊の追いせまる音をきいたが、余はそれに無関心であった。余はこのたびの出陣に当り、余が修学の禅林の池底に秘かに埋蔵して出発すべき秘密の誓文の文案をねっていたのである。それは次の如くできた。

  この一戦はバイより出づ
  余はバイなり
  悪逆無道の山蛸をただ八ツ裂きにせんのみ

     川中島に立ち大本営を望見す

 ひそかに戦備をととのえ、八月十四日に至って、春日山城を発す。
 余の率いし兵一万三千なお二万の留守兵を春日山に残して敵の奇襲に備えしめた。
 およそ戦は兵力の大に頼るべからざるものだ。各人それぞれバイたらんとすれば足る。いたずらに数の大なるものは機動力を失うのである。
 しかし余が春日山に二万の留守兵を残したのは、単にそれだけの意味ではなかった。むしろ信玄の作戦に無言の牽制を加えることが第一の狙いだ。彼の如くに術策を事にするヤカラは人の術策を疑い怖れるもので、春日山にとどまる二万の留守兵の動向は、彼に不断の迷いと不安を与えるに相違ないからである。
 余の選定せる戦場は川中島。そこには敵の誇る要害海津城がある。四囲の山と川を利用し、諸国の要塞の粋をとって築城したもので、当時は高坂|弾正《だんじょう》が守備していた。
 この城塞は規格が小であるから、中に収容しうる兵力はせいぜい二千足らずであるが、余が一万三千の兵力をもって突入をはかっても一朝一夕には抜きがたい要害であった。もとより余はこの小塁を抜くために多くの犠牲を払うが如き愚は考えていない。ただこれを攻めると見せて、信玄の出陣をうながすためであった。
 余は途中一万三千の兵力を二手に分け、一は北国街道より、一は富倉峠より信濃に入り、善光寺に休憩。折から栗の季節であるから、栗ヨーカンを食ったのち、大荷駄と五千の兵を善光寺に残し、余は小荷駄と八千の兵を率いて川中島を横切り、妻女山に本陣を構えたのである。
 松代方面からの山脈が川中島の中央部に突入して終っているのが妻女山で、山脈の終点だから最も低い山ではあるが、川中島へ突入しているために川中島の全貌が手にとる如くに見分けられる。北方は遠く善光寺まで見通しだ。
 また海津城は三キロ東方の眼下にあり、その彼方に松代がある。妻女山につながる山脈は松代の背面を迂回しており、この山々の麓には過ぐる太平洋戦争に日本軍部が築きかけて終戦となった松代大本営の地下室への入口のいくつかが望見できるのである。天皇の居室に当るところは、山峡に入口が設けられており、ためにここから見ることはできない。随行の放善坊は、海津城の動勢よりも松代大本営の設計に多大の興味を覚えた如くであったが、余もまた若干その傾きがあった。
「海津城の後左に大きな石塁をつんだ入口らしいのが見えますな。あの入口の向う側に大本営の正面入口があるらしいですぜ。アレ、アレ。右手の山々には小さい入口がタクサンあらア。ずいぶん掘りまくったものですなア。その穴の大半が素掘りのうちに終戦を迎えたから、諸所が崩れて穴ボコの大半が使い物にならないそうじゃありませんか。せっかく掘った穴が崩れるぐらいバカな話はありやしないよ。我々が穴を掘るのはその穴たることが身上だからじゃないか。穴が崩れるために穴を掘る奴はいないや。なんだって、また、穴が出来上るまでねばらなかったんでしょうかねえ。モッタイない話じゃないか。この穴ボコまで崩れちゃア、太平洋戦争なんて、どこにも取柄がありやしねえ。せめて穴ボコが完成して、入場料をとって見物人を入れて、三千年か五千年たつうちには元がとれるじゃないか。あの戦争には人が居ませんでしたねえ」
 国やぶれて山河ありという。余もまたいつの日か、明日か、今日か、身は死して草に伏し、山河に帰する日のありと思えば、はるかに大本営跡を望見して、感慨ただならぬものがあった。
 過ぎし太平洋戦争も、今日の余も、ともに最後の本営を川中島に対して設けたることの奇遇をあやしむのだ。かの時代と今日と、戦略的に共通したところは一ツもない。兵器も戦術も異な
前へ 次へ
全5ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング