たらす力であるや否や、余の頭はいささか混乱した。

     バイを食して大悟す

 タイル張りの浴室に海水を洗い落して、余が二階へ戻ると、放善坊が性こりもなく一句したためて余に示した。

  大海は洋々と童貞をつつみ
  PTAのオバサンとアヤメ分たず
  ただ見る疲労の色あるはこれ童貞

「さっきの句よりはいくらかマシだ」
 余は破かずに紙片を投げ返した。放善坊はカラカラと笑い、
「万事、食慾の問題ですよ。坊主の食物を食ってたんじゃア、いつまでもウダツがあがりませんや。まこれなる物を召し上れ。これが鯉のアライ。こちらがキスのフライ。そして、こちらが――オイ、オイ。女中!」
 放善坊は大慌てに女中をよんだ。そして、叱りつけた。
「キサマのウチは客人にタニシを食わせるのか」
「バカ云いなれ。それタニシらかね。バイらがね」
「バイとは、なんだ」
「バイらて」
「きっとタニシでないか」
「タニシが海にいるかね」
「これが海の貝か」
「食べてみなれ」
 余はバイを一つつまみ、臍の緒のようなものをひきだして舌にのせた。噛みしめると、実にうまい。貝の堅さがなく、草木の若芽の如くに腹中に溶けこむ趣きである。余は皿のバイをみな平らげて、放善坊の皿をひきよせた。余がバイを食する様を小気味よげに打ち眺めていた放善坊はカラカラと大笑し、
「坊主の食物になれた人にはタニシが珍味と見えますな。田舎女中に笑われないようになさいまし」
 余は彼の皿のバイもみな平らげて、女中に命じた。
「大きな皿に山盛りバイを持って参れ」
「ハイ」
 女中は莞爾と笑い、親しげに余を見返してイソイソと立った。放善坊はイマイマしげに女中の後姿を睨んでいたが、
「ウヽム。タニシを食わなくちゃア、女中にもてないのか。チェッ! 仕方がない」
 その女中はPTAの顔役連とちがい、年も若くて、いくらか美人であった。放善坊は詮方なくタニシを食う方を選んだもののようである。しかし、最初のバイを食べた時、彼は血相を変えて叫んだ。
「ウーム。うまい! たしかに、バイだ。これは海底の味覚だぞ。しかも相当の深処に育った味覚だな。まず、そうさ。三十|尋《ひろ》の味かな」
 丸薬をのみこむようにバイを呑みこみはじめたのである。余がいくつも食さぬうちに、山盛りのバイがカラになった。放善坊は息つくヒマももどかしげに女中に命じた。
「もっと大きな皿にもっと山盛りにもってこい」
「キサマ、本当にうまいのか」
「うまいですとも。見直しましたよ。あなたも相当な食通だ。海底にも海底の山川草木があるものですが、その全ての精気がこもってますな。これは少くとも七十五尋以上の深海に生育していますよ」
 彼の目の色が変っていた。色慾から食慾に乗りかえたことが歴然と現れていたのである。彼は三皿目のバイも大急ぎでむさぼりくらい、女中をよんで、
「オイ。オマエのウチにイケ花をいけるような大きな皿があるだろう。その皿に、山盛り、バイをつみあげてこい」
「樽ごと持ってきてやろかね」
「なるほど。それも、いいな」
「目の色が変ってるわ」
 女中は嘲笑して去ったが、卓上には置き場がないほどの大きな皿にバイを山盛り運んできた。二人はそれもことごとく平らげたが、さすがに放善坊も五皿目を所望しなかった。余もことごとく満腹であった。
 放善坊は食べ終ると横臥して目をつぶり、
「知りませんでしたねえ。人生は深く、ひろい。バイを食べて、人生にバイバイ。また、よし。また、よし」
 ふと見ると、彼は泣いていたのである。
 余もまた強烈な心境に憑かれていた。バイとは何物だ。タニシそのものであってもかまわない。その存在が一に尊まれるのは、人に食せられるによってである。死せざればただ水中の怪物にすぎざる物も、死して人に食せられては、放善坊をも泣かしむるのである。人生の理はかくの如くに顕然たり。余もまたよく己がツトメを果して死せざれば、ただ春日山の怪物にすぎざるべし。
 余は生来のサムライである。サムライがサムライたることを羞じ怖れては己がツトメの果さるべき理がないではないか。
 憎むべきかの信玄を斬れ。かの入道を足下に踏んまえよ。将兵の辛苦はさることながら、これもまた銘々のツトメならば是非もなし。謙信はバイたらん。諸氏もまたバイたれ。春日山城の総員はあげてバイたれ。諸氏はその馬力に於てPTAの女連盟に及ばずといえども、バイたれば足るのである。謙信は馬力に於てPTAの女連盟に遠く及ばず。しかも余がバイたれば、PTAの女連盟は余のために哭し、余の名をたたえるであろう。諸氏に於てもまた然りである。バイたれ。バイたるべし。バイたらん。
 余がかくの如くにカツゼン大悟して、ふと見やれば、放善坊は涙を拭き拭きカラカラと狂笑して起き上り、
「さて、この勘定はいくらだろうか。
前へ 次へ
全5ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング