っている。すべては偶然と思う以外に仕方がないが、とは云え、死を決したる身には、偶然もまた奇怪なる感慨をともなうのである。
 余は過ぎし太平洋戦争の如くに、余の今日の出陣もまた日本の悲劇的な象徴でなければよいがと考えた。そのためには、余は敵に勝つあるのみである。かの悪逆無道の山蛸をただ八ツ裂きにするあるのみ。
 妻女山の西方は北国街道をはさんで善光寺につづく山々に相対している。その一点に茶臼山があった。
 余は信玄が地蔵峠を越えて松代にか、北国街道に沿うて川中島にか現れることを予期していた。即ち信玄の進路はおのずから余の背面に迫るのだ。なぜならば、余の背面は全てこれ信玄の勢力範囲であったからだ。余は背面よりの奇襲を承知の上で、わざと不安定な陣をしいた。
 しかるに信玄は背面より来らずに、二万の兵を率い、突如茶臼山に現れて本営をしいたのである。八月二十四日であった。

     無念山蛸を斬りそこなう

 信玄が茶臼山に現れて本営をしいたため、ここに奇妙な十字形がつくられたのである。即ち南北には、妻女山なる余の本営八千人と善光寺の五千人と相対し、東西には東の海津城と西の茶臼山とに甲州勢が相対している。その中間の平野が無人の川中島であった。両軍いずれも左右に敵をうけて連絡が不自由となった。
 特に余の軍勢は大荷駄を善光寺に残したために兵粮があと十余日しかつづかない。ために余が本営の将兵に動揺が起った。
「もしも善光寺の味方が撃滅されて大荷駄を失えば我々は食糧もなく孤立しなければなりません。すみやかに春日山の留守兵二万の救援をもとむべきではありませんか」
 宇佐美はかく余に進言した。余はそれに答えて、
「信玄が余の背面をつかず茶臼山に現れたのは、余に秘策あるを怖れたからだ。したがって、彼が余らの意表にいでて茶臼山に現れたと見るのは当らない。怯える心はむしろ信玄に強いのだ。余の本営に動揺の色がなければ、蛸めには善光寺の大荷駄を襲うだけの勇気も起るまい。余の策をはかりかねているからだ。救援の兵力にたのむ心を起してはならぬ。万事謙信の胸にまかせて、ただ最後の一戦にのみ備えよ」
 余は将兵にかく諭して、日夜妻女山々上に小鼓を打ちならし謡曲にふけった。
 果して信玄は余の策をはかりかねたのであろう。五日の後に陣を撤し、川中島を過ぎて海津城に入り、敵軍は合して一ツとなった。我軍は二分したままである。しかも余は依然として歌舞音曲にふけっているから、我が将兵の中には再び安からぬ心をいだく者が起った。余は彼らに諭して、
「我に倍する兵力をもつ信玄が茶臼山の本営を撤して海津城に勢力の合一をはかった心事を考えよ。我が策をはかりかね、怖るる心の故に、倍する兵力を持ちながら、自軍の合一を急ぐのだ。もとより合一した以上は今度は何か仕掛けるであろうが、怯える心の故に、敵の仕掛は慌てているか、用心しすぎているか、どっちにしても迫力を欠くものにきまっている。敵の不安をさらに掻き立てるために、我が軍はいつまでも二分したまま平然と敵の仕掛けを待つがよい。我が備えが不合理であればあるほど、敵の怯えは深まるのだ」かくて余が将兵の動揺はこれを防ぐことができた。
 さらに日を過ぎること十日。ついに信玄の陣営に出動の動きが起った。日没に至りおびただしい炊煙のあがるのを認めたのである。茶臼山を撤して海津城に合一をはかった時に、すでに信玄は余が術策に負けたものというべきであった。なぜならば、海津城の動勢も、その四囲の山々やまた川中島の動きも、すべて余の本営から一見えであったからだ。彼らは日中は動くことができない。夜間のみの機動力は限られている。彼らの策戦はすでに迫力を失っていたのである。
 九月九日の夕暮れ、敵陣の動きに異常を認めるや否や、余は幕僚を呼び集め、
「日没と共に諸方に兵を伏せ、わが陣に近づく者は百姓たると女子供たるとをとわず、全てを殺して一人も帰すな。決して声をかけるな。無言で斬りつけ、全てを殺せ。行く者も近づく者もすべてを敵の間諜と思いきめて斬り殺せ。一人といえども斬りもらしてはならぬぞ。したがって、我が軍は間諜をだすな。すでに我から間諜をだす必要はない。敵の策戦は山伝いに余の背後をつくか、前面に兵をくりだすか、いずれかしかない。我が軍は敵に先だち川中島の真ッただ中に総勢をくりだすのだ。敵の間諜すべてを斬り伏せて帰すことがなければ、我が必勝は明かだ」余の命令一下、日没と共に余の軍は行動を起した。
 余は善光寺の五千の兵に連絡しなかった。途中に敵が間者を伏せていることは明かだからだ。あるいはすでに敵の間者は善光寺界隈をくまなく封鎖していよう。もしも善光寺の我が軍が動きだせば、敵は我が策戦をさとるのだ。余ら八千は五千の援兵を放棄することによって、敵のノドにアイクチを擬すること
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