ができるのである。
 余の当夜の陣形を車がかりの陣と云うが、別にそれほどの特定の名称を必要とするほどのものではない。
 余の軍兵は余の本陣を中心として、ほぼ円形に陣を構える必要があった。なぜなら、敵がどの地点に陣をかまえるか分らないからだ。地点不明の敵陣に備えを立てて夜明けを待つには余の本陣を心棒に円形の陣が必要だっただけである。
 余の軍兵は敵に先立って川中島に陣立てすることに成功した。敵の陣が五間前方に迫っていても素知らぬ顔、音を殺して夜明けを待てばよかったのである。信玄は我から四五丁離れたところに陣をたてた。
 信玄は高坂弾正に一万二千の兵を附し、山伝いに余の背後から突き落す策戦だった由である。信玄自身は八千の兵を率いて川中島に陣し、夜明けと共に挟み撃ちにかけるツモリであったらしい。
 信玄の放った間諜は、ついに一名といえども復命し得た者がなかったそうである。
 したがって信玄が知り得たことは、善光寺のわが軍に何らの動きも起らなかったことだけであった。したがって、信玄は大胆に動くことができなかった。余の目算よりもかなり控えめに陣を立てた。したがって、夜が明けたとき、彼我の陣に四五丁の距離のあるのを余は認めて、彼の怯懦を笑うとともに、甚だ失望をしたのであった。
 敵は我軍の出撃を予期しておらぬから、かなりおくれて余らを発見した。しかし余らは四五丁の距離をつめる必要のために完全なる奇襲を行うことができなかった。
 我軍の鉄砲組が火蓋を切った。つづいて弓隊が之につぎ、つづいて長柄の槍組が突入した。円形を描いていた我軍は次から次へと新手をくりだして敵陣に突入したのである。みるみる信玄の陣立ては総くずれにくずれ立った。敵の十二陣中くずれざるものわずかに三。信玄の弟|典厩《てんきゅう》信繁も開戦とともに討死してしまった。
 川中島に対陣した彼我の兵力はともに八千であったが、信玄には山伝いに妻女山の背面へ迂回している一万二千の兵がやがて馳せ参じるであろうことが分っている。それに比べて我が善光寺の五千の兵はこの策戦を関知するところがなかったから、その援助を待つことはできないのである。
 一万二千の援軍ちかきことを予知している信玄は、総くずれの敗戦ながらも、たくみに兵をまとめ、ひたすら守勢にまわって援軍を待つ策をとった。
 くずれたつ敵兵はさすがに逃げ失せる者もなく辛くも浮足をくいとめて、くずれるたびに守勢を立て直したが、そのうちに信玄の本陣は次第に前面へ押しだされ、敗兵が後にまわって守勢をとる始末になった。
 その隙を見て余は突如一騎駈けだした。信玄の姿を認めたからだ。ほぼ最前面に姿をさらけだしていた。その一刻を失えば、信玄は再び部下に守られてしまう一瞬であった。余も、あせっていた。必死に馬を走らせ、また馬を踏み止めて、順慶長光の太刀ふりかぶり、
「信玄、覚悟!」力いっぱいふり下した。
「下郎、さがれ!」
 信玄は軍配をかかげて余の太刀をふせいだ。彼の狂乱した目が見えた。余の太刀筋に狂いがあり、甚しく意にみたぬものを感じたが、いかんとも詮方ない。二太刀。三太刀。信玄の肩先にかなり深く斬りつけた手応えを感じたが、彼の姿はまだくずれなかった。四太刀目こそはと振り上げたとき、余の馬が躍り立って駈けだした。敵兵の槍に馬の尻を突かれたのだ。余の馬は敵陣のただ中を駈けぬけて、信玄の姿は遠く離れてしまったのである。
 敵方に一万二千の援軍が馳せつけた。それからは我が軍の不利であった。夕頃、余は残兵をまとめて善光寺に退いて集合した。敵も兵力をまとめて海津城に入る。戦は朝五時にはじまり、夕方五時に終ったのである。わが軍は死者三千七百。負傷者六千。敵軍は死者四千六百、負傷者一万三千。
 山蛸を逸す。悲しきかな。



底本:「坂口安吾全集 14」筑摩書房
   1999(平成11)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「別冊文藝春秋 第三五号」
   1953(昭和28)年8月28日発行
初出:「別冊文藝春秋 第三五号」
   1953(昭和28)年8月28日発行
入力:tatsuki
校正:藤原朔也
2008年4月15日作成
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