んだ。こつちは商売でやつてるんだぜ。天妙教の出店の酒場ぢやないんだから、とつとゝお帰り」
「アレマア、旦那はセッカチだわねえ、この子にや芸があるんですよ。大繁昌疑ひなしの芸だわよ。ふんとに悲しいことだねえ。よその男にや喜ばれるが、一人の亭主にや厭がられる、なさけないと云つたら、ありやしないね。何も、あなた、私やわが子の恥をさらしたくはないけどね、天妙大神のオボシメシなら、是非もないわよ。こちらのお店にや天妙大神の御意が及んでゐるのだから、ふざけちやいけませんやね。うちの子のギセイがあるんだよ。悲しいギセイなんだよ。こつちはイケニエになつてるんだ。罰当りを言つちやア、神罰たちどころに及ぶから」
「僕のところぢやあんた方のゴムリを願つちやゐないんだから、天妙様の御指図は方角が違つてゐるのだらう。この節のお客は特別伝染病をこはがるタチだから、とつとと帰つておくれ。石炭酸をブッかけるぜ」
「アレまア旦那、私や五色の色に光る目玉は始めてだよ。ふんとに旦那は御存知ないことだからねえ、とんだ失礼申しましたよ。それぢやア旦那、お気に召さなきや酒代は私が持ちますから、カストリを一升ほどこの子に飲まして下さいな。見ていたゞかなきや、分りませんわよ」
 最上清人の気にかゝるのは、ギセイ、イケニエといふ穏かならぬ文句で、養命保身、天下は広大だから、どこに曲者がひそんでゐるか、偉大なる独創は得てして見落され易いものだ。こゝが大事なところかも知れぬと気がついたから、カストリ一升とりだす。婆さんもいくらか飲むが、娘が大方のんで、旦那もお飲み、と注いでくれたり、旦那私に注いでよ、一升がなくなり二本目を飲みだすころからトロンとして、
「バカにするない、私を誰だと思ふんだい、ヒッパタクヨ」
 ふらふら、やをら立ち上つて正面をきり、手でモゾ/\前のあたりを何かしてゐたと思ふと、裾をひらいて尻をまくりあげ、なほも腹の上までゴシゴシ着物をこすりあげる。そして羽目板にもたれて股をひらいて片足を椅子にのせた。
「旦那、々々」
 婆アさんは清人の肩をつゝいて、
「顔をそむけて、気取つちやいけないわよ。ギセイだよ。見てやらなきや、いけないわよ」
 陰毛がなかつた。すきとほる青白さが美しい。局所を中心にして腹部と股に蜘蛛の巣がイレズミされてゐる。腹には揚羽蝶《あげはちょう》と木の葉がひつかゝり、片足の股の付根にカマキリが羽をひつかけて斧をふりあげて苦闘し、片股に油蝉がかゝつてゐる。中心の局所に蜘蛛が構へて目玉を光らしてゐるのである。
 ちやうどそこへ来合はせたのが、更生開店と知つて二人の友達をつれてきた倉田博文で、ヤア、コンチハ、開店早々にしちや賑かぢやないか、アレ、お客は御主人自らか、新戦術てえところだね、と言ひかけて名題の大達人も立ちすくみ言葉を呑んでしまつたが、娘はそのとき目をあけて新客どもをジロリと睨んで、
「チェッ、バカにするない。拝んで、目を廻すがいゝや」
 やうやく裾を下ろして卓にうつぷして、
「ねえ、旦那、ダンの字、私を馬鹿にしちやいけませんよ。私は一生失恋するんだ。いゝかい、私は承知の上なんだよ。私はね、失恋するために、それを承知で、生きてるんだよ。見損ふな。誰にだつて、ふられてやるから。ネエ、ちよいと、ふつておくれよ。意気地なし」
「ごもつとも、ごもつとも。分ります、その気持は。私も賛成、失恋すなはち人生の目的なんだな。この人は苦業者です。しかし、うらむらくは、苦業者こそホガラカでノンビリしなきやならないものだといふスタイル上の手落ちに就てお悟りにならない。この方のお名前は? ヨシ子さんですか。ヨッちやんだな。ヨッちやんや。あなたは美人だなア。私はさういふ顔が好きなんだ。腹のイレズミも見事だけれども、あなたの顔には及ばない。ネンネはよしませう。オッキして、ホガラカに飲みかつ談じようではありませんか」
 と倉田が肩に手をかけるのを、押しやつて、
「よくしやべる奴ぢやないか。おしやべりする奴、きらひだい。さうでもないや、おしやべりする人、私や好きなんだよ」
 顔を起して倉田を見定めてゐたが、
「あとで一緒にのむからね。ちよつと、ねむるよ。あんた、バカにしちや、だめよ。知つてるからさ。いゝとも、ふられてやるから。ちよいと、あんた、手をかしてよ」
 倉田の手を握つて、ねむつてしまつた。
 ヨッちやんは陰毛がなかつた。そのはづかしさを思ひつめ、強迫観念になやまされたが、友達の話にヒントを得てひそかにイレズミをやつた。結婚して追ひだされ、いつからか酔つ払ふと親の前でも御開帳をやるやうになつたといふ話であつた。
「それは悲痛な話ぢやないか。然しそれ故これをそのまゝ悲痛と見たんぢやいけない。オバサンの曰く、ギセイ、それです。私もまたギセイと見ます。運命のギセイ、その意味ぢやない。その意味では悲劇だけれども、神にさゝげるギセイ、己れをむなしくするギセイ、要するに、あなた、人々の養命保身のために自らの悲劇をさゝげるのです。だから御当人は明朗、自適の境地がなきやいけない。当店のマスターたる最上先生も御母堂もその心得で指導しなきや、第一、どことなく明るさとか、無邪気とか、救ひがなきや、因果物みたいでお客だつて喜びやしねえな。だから私が美人だといふ。喜びますよ。当人自身に救ひがなきや、人を救ふ御利益のでてくる道理はねえからな。だから、あなた、私が彼女は美人だといふ、御当人が信じないといけないから、さういふお顔が好きなんだ、と云ふ、これは口説です。これが大切なんだな。するてえと私のギセイにおいて彼女が次第に因果物の心境をはなれてくるです。これを別して側近に侍《はべ》るみなさんがやらなきやいけない。このまゝぢやア、グロテスクすぎるよ。それにしても意外な芸があるものだな。日本もそろそろ新人が現れつゝあるんだなア」
「アレまア、旦那はこの子をほんとに美人と思はないの」
「冗談いつちやいけないよ。美人てえものは美しき人とかく、この人は人間の顔からちよつと距離があるからね。ふなに似てるのかな。とがつたところはエビみてえなところもあるな。当人だつて心得てるんだから、むやみやたらに美人と云つたつて疑るよ。だから、私はかういふ顔が好きなんだ。とても可愛いゝ、とかういふのです」
「罪だわよ、旦那、この子は本気にするからね」
「だからさ、この子を本気にさせてやらなきや、因果物の気質がぬけやしないぢやないか」
「この子はノボセ性なんだよ。すぐもうその気になるからね。私や困るわよ。旦那、すみませんけど、ギセイのついでに、この子をオメカケにしてやつて下さいな。高いことは申しませんよ」
「いけません、いけません。芸術は私有独専しちやいけない。この子はすでに失恋に日頃の覚悟もあることだから、天分を育てるために私たちは力を合せる、この子と私がちよッと懇になつたりするのを、オバサンは我が子の天分のためと思つて、ひそかに喜んでくれなきやいけない」
 うまいことをいつてゐる。
 最上清人はもうその場にはゐなかつた。彼はもはや全然ヒマといふものが心にないから、御開帳のオツキアヒなど、もどかしくて堪らない。お衣ちやんの鎮座をたしかめて、コック場でセカセカ、用もないのに、たゞむやみに心が多忙である。

          ★

 人間の独専慾は悲しいものだ。最上清人はお衣ちやんを誰の目にもふれさせたくないのであるが、人間を小鳥のやうに籠に飼ふわけには行かないもので、朝の御飯をたべてしばらくすると教会へ遊びに行つてくるといふ。なぜ? 用があるの? 用件を具体的に説明するやうなことはなくて、たゞ用がある? 行つてくるわ、さうきめこんでゐる。籠に飼ひならされる精神はミヂンもなく、外出を拒否されるなど想像してゐないのだから、清人の承諾をもとめてゐるのと意味が違ふ。行つてくるわ、といつて立ち上つて黙つてをればそのまゝサヨナラも云はずに行つてしまふから、何時に帰るの? 私時計がないのよ、教会にあるだらう、でも私時計見ないもの、全然たよりない。仕方がないから玉川関にいひふくめて迎へに行つて貰ふ。十一時頃迎へにやると一緒に五時頃帰つてくる。そんなに長く遊んできちやいけない、ひるまへに帰れ、玉川関に断乎申渡して迎へにやると、ひるまへに帰つてきたが、子供を二三人づゝつれたオカミサン連を三人もつれてもどつて昼食をたべさせ、夕方までギャア/\バタ/\泣いたり糞便をたれたり大変な騒ぎをやらかす。
 サヨナラもタダイマもオハヨウも、その他親しみのこもつた言葉何一つしやべらず、宿六をなんと思つてゐるのだか、同衾《どうきん》はする、しかしそこから宿六といふ特別な人格などはミヂンも設定の意志がなくて、かうなると宿六も切ない。どんな男でも、男には身をまかすものときめてゐるものにしか思はれないから、どこで何をしてゐるか、男といふ男がみんな恐怖の種、教会の神主、失業オヤヂ、病気のヂヂイもその子の中学生も、みんなおそろしくてたまらない。
「君の結婚した人なんて人だつたの」
「知らないわ」
「何人ゐるの」
「一人にきまつてるわ」
「教会のオバサンは八人といつたよ」
「一人よ。私、失恋したのよ」
 誰に失恋したのだか、八ヶ月の人物だか、一週間の口だか、一晩の口だか、皆目分らない。僕は君の何かね、ときいても、知らないわ、なぜこゝへきたの、神様のオボシメシだといふ。
 着物を買つてくれ、靴を買つてくれ、煙草を買ひだめておくとそれを教会へ持つて行つて誰かにくれてくる、教会と手を切る工夫をしなければ気違ひになりさうだから、絶対男に会はせぬ手筈であつたが、是非もない。倉田博文の手腕にすがつて策を施す外《ほか》に思案が見当らないから、事情をうちあけ、お衣ちやんも紹介に及んで、しかしこゝがカンジンなところだから、天妙教の手切りの件が眼目ではあるけれども、お衣ちやんを独専したい苦心の胸のうち説明に及んで釘をさす。
「これは最上先生、そんなふうに私を見損つちやいけないな。そもそも紳士道といふものは、こゝに唯一無二の規約がある。それはあなた男女たがひに誰を口説いてもよろしいけれども、友だちの思ひものだけ口説いちやいけません。あなたが麗人同伴で私の前に現はれる。そのとき私は最上先生の弟子であり忠僕であるごとく己れを低くして最上先生を立てゝあげる。かはつて私が彼女同伴最上先生にであつた時には、最上先生が私よりも薄馬鹿みてえに振舞つて私を立てゝくれなきやいけません。この一つが紳士道唯一絶対の規約なんだな。我々は紳士でなきやいけません。だからもうこと御婦人に関しちや私を絶対に信用してくれなきや、しかし、最上先生ほどの非情冷静なる御方がアノ子のためにはオチオチ眠られぬ、男といふ男が怖い、これはいゝね。まつたくホロリとするぢやないか。よろしい、犬馬の労をつくして差上げませう」
 と、まづビールを五六本きこしめしてから瞑想にふける。
 何よりも店の繁昌、これをブチこはしたんぢや話にならない。お金といふ後楯《うしろだて》があつて紳士道も成立つのだから、天妙教と手を切る、そのために店がにはかに衰微しちやいけないから、それとなくヨッちやんの意中をたしかめてみると、ヨッちやんは天妙教など問題にしてゐない。住む家もなく、生活の心当りもないから、オフクロにひきずられてゐるだけのことだ。オフクロがまた我慾一方、人のために我身の損のできないタチだが、天妙教にすがつてゐると野たれ死だけまぬかれる、この目当は老いの身の頼みの綱だから、オイボレ廃人狐つきの集団生活、不愉快きはまるけれども教会を裏切られない。
「お米、醤油、ミソ、塩、油、バタ、砂糖、玉川関は色々とくすねて教会へ運ぶさうぢやないか。さもなきや子供づれのカミサン連が押寄せて食ひちらかして行くてえ話だけど、暴力団でさへ一軒のウチを寄つてたかつて食ひ物にするにはいくらか慎みや筋道はありさうなものぢやねえか。天妙教ぢやア、泥棒ユスリがなんでもねえのかなア、心持が知りたいもんだな」
「ふんとに倉田先生、私や辛いのよ。全くもう人間の屑のアブレ者がそろつてるんだ
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