がどんなに酔つてもどんなムリも起すことがないといふ、宇宙なるかな、偉大なものではないですか。もと/\お客は貧乏にきまつたもので、お酒のお代りは、とか、召上り物は、とか、脅迫しちやいけないのです。自分のふところは十分以上に心得て、何杯のめる、残る一円五十銭が電車賃、覚悟もりりしく乗りこんできていらつしやるから、コップがカラにならうと、オカズの皿がカラにならうと、全然見向きもしてはいけません。そのくせ不愛想ぢやア俺のふところを見くびりやがる、ヒガミが病的なんで、全然衰弱しきつていらつしやるですな。だから酒場のオヤヂは目のおき場所からしてむづかしいや。人間業ぢやア、ダメでして、まさしく天才を要するものです。聴音機のオバサンときては、目の玉はどつちを見てるか見当がつかない、ナメクヂの往復で静々と必死多忙、全然お客は脅える余地がないどころか、金満家みたいにせきこんで、オイ早く、カストリ、なんて、これはいゝ気持だらうな。すると、あなた、ナメクヂの方ぢやア必死なもんで、目の玉のゆるぎも見せずヘーイと答へる、お客のハラワタにしみわたりますよ、積年の苦労、心痛、厭世、みんな忘れる、溜飲も下るでせうな。養命保身、当店は宇宙そのものです」
「なるほど、すごい天才を見染めたものだな」
と倉田博文大感服。
そのとき居合はしたのが最上清人先生で、これを小耳にはさんだから、なるほど、オレも然らばこのへんで自殺はやめて、幸ひ店はまだ売れ残つてゐるのだから、オレも天才をさがして千客万来もうけてやらう。老いては子に教はれ、真理をうけいれるにヤブサカであつてはならぬ、と考へた。
★
事は神速を尊ぶ、思案に凝るのは失敗のもとで、最上先生もとより事物のカンドコロにぬかりはないから、模倣は創造発見のハジマリ、ためらふところなく自分の近所の天妙教々会へでかける。なるほど、ゐる、けれども一癖ありすぎて、お客を吸ひよせるよりも追ひちらかす危険が多分にあり、養命保身、天才はざらにあるものではない。
すると最後に教会のオカミサンが現はれて、一人づぬけた麗人がゐるのだけれども、家政婦なみに扱はれるんぢや、見せてあげられない。とびきりの美人なのだから、店の客ひきの看板娘に絶好で、通ひだつたら夕方五時から十時まで三千円、住みこみ五千円、但しこの金は月々前払ひで本人には渡さず教会へ届ける。戦災者で衣裳がないからタヌキ屋でもつ。それから月給前払ひのほかに保証金一万円ゐるといふ。
「通ひ三千円、住みこみ五千円、と。変ぢやないかな。あべこべぢやないのかな」
「分つてるぢやないの、旦那。とびきりの美人よ、分るでせう」
「ハハア。なるほど。とにかく会つてみなきや」
「ですから旦那、私の方の条件はのみこんで下さつたんでせうね」
「あつてみなきや分るものぢやないですね」
「それは会はせてあげますけどね、とにかくスコブルの美人ですから。でも、ちよつとね、ゆるんでるのよ」
「何が?」
「こゝね、ネヂがねえ、見たつて分りやしないわよ。あべこべに凄いインテリに見えるんですから。だから、あなた、今まであの子にいひ寄つたのが、みんな学士に大学生よ。あの子がまたおとなしくつて、惚れつぽいタチだもんで、すぐできちやつて、結婚して、それでもあなた八ヶ月もね」
「八ヶ月で離婚したの?」
「さうなんですよ。男がよくできた人でね、両親がなくつて婆やがゐたもんだから。そのほかは大概一週間から三日、一晩といふのもありましたけど、でもあなた、みんな正式の結婚よ。親がシッカリ者だから、みだらなことは許しやしません。戦災して教会へころがりこんで親が死んで、それからはあなた、私がカントクして風にも当てやしませんわよ。終戦以来はゼンゼン虫つかずよ」
「いくつなんですか」
「二十四ですけど、見たところハタチね。娘々して、八度も結婚したなんて、どう致しまして、お店のお客には立派に処女で通りますわよ。口数すくなにお酌だけさせといてごらんなさい。しとやかで、上品で、利巧で、男の顔さへ見りや必ずポッとするんですから、目にお色気がこもつてね、全然もう熱つぽい目つきになつてしまふんだから、あの目でかう見つめられてごらんなさい、お客はサテハと思ふでせう。千客万来、疑ひなしだわよ」
そこでオカミサンに付《つき》そはれて娘は伏目に現はれたが、なるほどゼンゼン美しい。処女の含羞、女子大学生、たゞ目が細い。しかしスーと一文字にきりこまれていかにもうるんで悩ましく、すきとほつた鼻筋とよく調和して、平安朝の女子大学生、うつたうしく、知的である。姿勢はスラリと均斉がとれ、特別、脚線のすばらしさ、レビュウガール、映画女優、これだけの美人がメッタにあるものではない。
予想外の美人だから、最上清人は茫然、一気に理窟ぬきの世界へとびこんでしまつた。これでネヂがゆるんでゐるとは、大自然といふ奴はまことに意外な細工師ぢやないか! 豪華本とか楽譜とか軽く抱へて街を歩く、上品でうつたうしくて、よほど心臓の男でもなくちや口説くさきに諦めてしまふ。だから八度ぐらゐの結婚ですんだやうなわけだらう。最上清人はとたんにお客といふお客を嫉妬して、いかにして一人ひそかに秘蔵すべきか、むやみに不安になりだした。
養命保身。これが宇宙そのものでなくて、なんであるか。心臓がブルブル、うつかり喋ると声がブルブルして、心のうちを見ぬかれるから、無言、鑑賞する。見れば見るほどブルブルするばかり、なか/\喋ることができない。
「お名前は?」
第一声。まづこれ以上は喋られない。娘はギクリと顔をあげたが、にはかにポッと上気し、目に熱がこもつて、かすかにほゝゑむ。
「私、西条衣子です。どうぞよろしく」
ネヂのゆるんだ声ではないから、最上清人は狼狽して、
「あなた、お料理できる?」
娘はうつむいてしまつたが
「私、家政婦、いやだわ」
とオカミサンに訴へる。清人は肱鉄砲で射ぬかれたやうにうろたへて、
「いえ、お料理は僕がつくる」
「女中さん、ゐないの」
ジッと見つめる。まさにテストをうけてゐるのは清人の方だから、問答無益、ポケットへ手をつッこんで財布をとりだしつゝ、
「女中ぐらゐ、志願者がありすぎるのさ。僕のところぢや白米をたべさすから。しかしコックがゐないから。戦争このかた、十年ちかく高級料理がつくれなかつたから、腕のよいのがゐないんだ。僕はお料理の方ぢやパリの一流のレストランで年期をいれたもんで、今の日本のお客ぢやモッタイないけど、人手がなきや仕方がないからさ」
一万五千円ポンと投げだす。自殺途中の道草のヤブレカブレといふところだが、ヤブレカブレぐらゐで人間気前がよくなりはしない。これはもうゾッコンの思召《おぼしめ》しをバクロに及んでゐるから、天妙教のオバサンありがたうといふのもオックウな顔で、つまらなさうにお札を数へながら、
「女中がゐなきや困るわね。この子が可哀さうだわよ、旦那、うちから誰かひとり、さうしませう。さうしていたゞきませうよ。お気に召したのがをりませんでしたか」
「どれといつて、ゐなかつたね。料理屋ぢやア妖怪変化がお米を炊くわけぢやアないからね」
「その代りみなさん大変な働き者よ。衣ちやん、玉川さんをおよびしておいで。あの方は料理屋向きだよ。四斗樽を持ち上げちやうからね。それに信仰が固いから、ジダラクな連中の集るところぢや見せしめになることもあるでせうよ」
返事一つで掌中の珠を失ふから、御無理ゴモットモ、仕方がない。するとます/\見抜かれてしまつたから、養命保身の神様にソツのある筈はなく、
「ねえ、旦那、教会の新築費用に五千円寄進して下さいな。どうせ旦那の商売はアブク銭だから、こんなところへ使つておくと、後々御利益がありますよ。この際、天妙教の信仰にはいるのが身のためです」
「文無しになつて首が廻らなくなつたら信仰させていたゞきませう」
「えゝ、えゝ、その時はいらつしやい。大事に世話を見てあげます。天妙様に祈つてあげます。人間はみんな兄弟、一様に天妙様の可愛いゝ子供で、わけへだてのない血のつながりがあるのですよ。ですから、お金のあるうちに、五千円だけ寄進しておきなさい。今後のことを神様におたのみ致しておいてあげますから」
「べつに神様に頼んでいたゞくこともないらしいからね」
「ぢや、オタノミは別に、お志をね。もし旦那、お衣ちやんはタヾの娘ぢやありませんよ。天妙教の信仰に生きる娘なんですから、神様のお心ひとつであの子の心がさだまるものと覚えておいて下さらなくちやア。お衣ちやんはこれから神前に御報告してオユルシをいたゞかなくちやこゝを出られないのですから」
「ぢや、オユルシがでたときのことにしませう」
ケチな性根をだしたばかりに神前へ坐らされ狐憑きの踊りを見せられ、あげくに五千円はやつぱりまきあげられる。口惜しまぎれに、
「そんなにユスラレちやア商売のもとがなくなるよ。モトデの五千円はインフレ時代ぢや十倍ぐらゐにけえつてくるんだから、結局お衣ちやんの後々のために悪くひゞくことになるんだがね」
「アラ、旦那はモトデのお金につまつてるんですか。この節の飲食店に、そんな話、きいたことがなかつたわね。アラマ、ほんとに、どうしませう」
はからざる大声で悲鳴をあげる。するとお衣ちやんがギクリとして、
「貧乏はいやよ。どうしませう」
「三十万や五十万に不自由はしないよ。しかしモトデは十倍にかへつてくるから五千円でも大きいといふ話さ。商売はさういつたものなんだよ」
ともかく、お衣ちやんと関取のやうな大女の付添ひをつれて、タヌキ屋へ戻りつくことができた。
★
ヤリクリ苦面《くめん》してアルコール類、食料、調味料をとゝのへて、釘づけの店の扉をあける。更生開店、しかしお衣ちやんを店へさらすわけにいかないから全然一室に鎮座してもらつて、自らコック。コック場の隣が鎮座の一室だから見張りの絶好点で、コック場を離れるたびに心痛甚しい。そこでお客のサービスには玉川関にでゝもらふ。玉川関は五十三だが、見たところは四十五六、五尺六寸五分もあつて、肩幅ひろく、筋骨たくましく、腕は節くれだち、脛《すね》に毛が密生の感じ、全然女のやうぢやない。稽古のあとの相撲のやうに乱れ毛をたらして悠々八貫俵を背負つてきてくれる、カストリの一升ビンをギュッと握つてグイとさす、豪快、小気味のいゝ注ぎつぷりだが、口をへの字に結んでランランたる眼光、お客が何か言ふたびにたゞエヘヘと笑ふ、養命保身と申すわけには行かない。
「私やお店はできませんから、幸ひ教会に商売になれたオバサンがをりますから、その方に夕方から来て貰ひませう。私は買出しの方やらオサンドンをやりますから」
と言ふ。この上教会からオバサンが来ては天妙教の出店のやうでイマイマしいが、玉川関は八貫俵を背負つた上に五升づゝ一斗のお米を両手にぶらさげて足先で裏戸をあけてはいつてくる、女だから隣組の用もたす、米も炊く、お掃除おセンタク、捨てがたい手腕があるから、よからう、なまじ女給などゝ月並な女どもを探すよりも天妙様の御意にまかせて当てずつぽうに御入来を願つた方が、どんな当りをとるか知れたものではない。
そこで現れたのが痩せてガナガナひからびた小さな婆さんで、日本橋でタコスケといふ小料理屋を二十年ほどやつてゐたがツレアヒが生きてりやこんな不景気な店へオツトメなんぞに出やしない、私や中風の気があつて手が自由をかきお酒をこぼしたりとんだソソウをやらかすことがあるから、娘をつれてきたといふ、娘は水商売に不馴れだから当分後見指南に当る由、娘は二十八、出戻りで、一つも取柄といふものがない。なんの病気か知れないが痩せてあをざめて不機嫌で、額のあたりへコーヤクか梅干でもはりつけて寝てゐたところを顔を洗はせて連れてきたといふ感じ、まだしも玉川関の豪快なお酌の方がお客の尻を長持ちさせる様子であるから
「よした、よした。あなたはお帰り。料理屋は病院ぢやないからね。お客は病み上りの仏頂面を眺めにきやしないから、僕の店をなんだと思つてる
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