及び恐怖に悩みながら、ともかくウハベはいつも空うそぶいてゐられたのである。近頃はさうはいかない。
 彼はもう孤独ではなかつた。多少の富と権力を握つたからで、死にやいゝんだと今までの口癖通りイノチの方をアッサリ突き放したつもりで空うそぶいてみても、富と権力を突き放すことができないから、もう哲学だの思想だのと、そんな悠長な世界ぢやない。思想が変つたなどゝいふ生やさしい話ぢやなくて、人間が変つてしまつた。変らざるを得ないのだ。つまり彼の哲学は、彼の人間によるものぢやなくて、もつぱら彼の境遇によるものであつたせゐなのである。
 彼は昔、課長や重役にやられたよりも、もつと冷めたく命令し、コキ使ひ、怒鳴りつけ、口ぎたなく罵つた。弱者に対して全然カシャクするところがないのである。
 昔は弱者には同類の親しみを寄せ、強者に空うそぶいてゐたが、近頃はあべこべで、強者に同類の親しみを寄せ、揉手《もみで》をしてオアイソ笑ひを浮べる。昔はまつたく笑つたことのなかつた顔だが、自然にほころびて、今日はいつもにくらべてお若く見えますね、だの、そのネクタイは好ましいです、などゝモンキリガタのお世辞を使ふ。
 昔弱者に
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