所でね、聴音機以上だなんてね、特配があつたのよ」
「それは凄い。御主人やお子さんは?」
「私はねえ、以前活版屋の女房だつたけど、離婚して、今はひとりなんですよ」
「なるほど、活版屋の女房が目が見えなくちやア不便だつたんですなア」
「そのせゐでもないんですけどね。いつのまにやら女中が女房になつちやつて私が女中になつちやつたから、バカバカしいから暇をもらつたんです」
「宿六をとッちめて女中を追ひだしやよかつたのに」
「だつてねえ。私はとても大イビキをかく癖があるもんでねえ、お前と一緒ぢや寝られないといふから、うちの人、文学者で神経質だから不眠症で悩んでゐたでせう、イビキのきこえないやうに物置でねてろなんてね、それやこれやで女中になつちやつたもんでね、私の大イビキが癒らなきやアどうせ物置で寝なきやアならないでせう。私しや結婚してビクビク心細い思ひをするよりも、いつそ一人で大イビキをかく方が気楽だからね」
 これは見どころがあると天童は思つた。目はヤブニラミだけれど右と左と大きさが全く違つて、一つは円く一つはやゝ三角に飛びでゝゐる。鼻は獅子鼻、口の片側がめくれたやうにねぢくれて出ッ歯で、そばかすだらけだが、全体としてどことなく愛嬌があつて、見るから無邪気で、暗さがない。生涯ろくな目にあはなかつた筈だが、その魂にも外形にも生活苦の陰鬱な刻印がないのは、頭のネヂのゆるんだところがあるせいで、その代り天真ランマン、近代人に欠乏してゐる人生の希望を具現してゐるところがある。然し、身の丈が低すぎるから、
「セイはどのぐらゐ?」
「エヘヽ。並よりはネ、すこし低い方だネ、ちようどぐらゐだけど、もう長く測らないからネ」
「四尺五寸かネ」
「エヘヘ」
「四尺だな」
「百十五センチね」
 まア、よからう、スタンドの卓から首が出ないこともなからう。首さへ出りや、目の高さに捧げて持つてくるから間違ひはない、とこの人物にきめ、その日から店へ来てもらつて、
「ヤア、いらつしやい。このオバサンはうちのニュウ・フェイスで、高良ヨシ子さんですが、御存知かも知れませんが、戦争中聴音機のヨッちやんとか新兵器のオバサンと申せば東部軍に鳴りひゞいた国宝級で、まことに凛々しい活躍をなされた方です。世を忍ぶ姿で。なんしろあなた、後向きでもお客様の鼻くそをほじる音まで聞き分けるてえ驚きいつた天才でさア」
 酔客のケンケンガクガクずらりと並んだあちら側を、首だけだしたオバサンがお盆を目の高さに捧げ持つてナメクヂの速度で往復してゐる。オバサン早く早くと云つたところで、生涯の失敗身にしみて焦らず、大きな目を最大限にむきだし全精神を目の玉に集中、剣客の真剣勝負のやうにジリジリにぢり進む。低速のおかげで往復に寧日《ねいじつ》なく、呼べば「ヘーイ」と調子の外れた大声で返事はするが目じろぎもせず必死の構へは崩れをみせず、真剣敢闘、汗は流れ、呼吸は荒れ、たまに勝負の手があくと汗をふきふき誰彼と腹蔵なく談論風発、隠し芸まであつて「浜辺の歌」だの「小さな喫茶店」などゝいふセンチな甘い歌が大好きで声もよい。大好評で、ナメクヂ旅行、必死必殺真剣の気合、談論風発、シャンソン、どれ一つとりあげても好ましからぬところがないが、特別なのが必死必殺ジリジリ進む最中に注文を受け「ヘーイ」と答へる気合の一声、剣の極意に達し、涼風をはらみ、まことに俗物どもの心にしみるものがあつて、これをきゝたいばかりに余分の一パイ注文したくなる。
 倉田博文先生も大感服、もう師匠だなどゝとてもお高くとまつてをられぬ。
「見上げたもんぢやないか。これは君、一つの創造、芸術だね。あゝいふ意外な人物が時代の嗜好に適するてえことの発見、バルザックが従妹ベットを創作するよりも新兵器のオバサンの創造登場の方が凄いやうなものぢやないか。イヤ恐れ入りました。なるほどねえ、人間の創造てえのは文学だけの専門特許ぢやなかつたんだな。創作のヒントがきゝたいものぢやないか」
「すべてインスピレーションは偶然でさア。人生も芸術も目的はすなはち一つ、養命保身ですな。そこでタイコをならす」
「なんのタイコ?」
「天妙教ですよ。先生ほどの物知りが知らないのかな。天妙教においては、朝晩タイコをたたいて踊るです。その目的は養命保身、これ天意であり、人生の意味だといふから大真理ぢやないですか。先生は浮気の美徳について金銭の威力について力説するけど、さういふことを考へるのは哲人だけで、一般に人間どもは浮気と金銭は不言実行の世界で、論ぜずして行ふところの証明論説を要せざる真理ぢやないですか。たゞの人間どもには人生の目的は養命保身、これが手ごろで、手ごろといふのは大真理でさア。酒をのむ、養命保身。映画を見る、養命保身。なんでも根はそれだけで、理窟をこねてルル説明に及んだところで、現
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