ゞそれだけのことなのである。その日から私はこゝで飲むことにした。ところが三日目に、この店でも変つたことが起つた。
 オコウちやんはもうオナカが大きくなつてゐた。すると宿六もすでに一国一城のあるじとなつたから何百年前からの仕来りでダンサーをお妾にしてよろしくやつてゐたのをオコウちやんが嗅ぎだしたから、覚悟をしろと、百万円ほどの札束をさらつて大学生と駈落に及んでしまつたのである。
 私は聴いたまゝ見たまゝ有りのまゝ書いたゞけの話で、これからどうなるのやら、幸、不幸、誰の運命も分らない。
 私が小便から戻つてきたら、置き去られの宿六先生、コックと給仕人と両方忙しく立廻りながら、
「これぢやア又、ハキダメからやり直さなきやアいけねえ。気を悪くしねえで、しばらくつきあつて下さいよ。ヘエ、お待ち遠」
 と一心不乱であつた。


   失恋難

 オコウちやんに逃げられた落合天童の飲み屋では、さすがに天童いさゝかも騒がず又ハキダメの要領でせつせと再興に乗りだす。オコウちやん狙ひの客は姿を消したけれども、お酒さへ安く飲めりやいゝんだといふ新客が次第にふへて今では昔日の隆盛をとりもどしたから、コックにバーテンに接客サービス、天来の敏腕家も手が廻りかねる。けれども夫婦共稼ぎとか、愛人をサービスにだすとか、お客は酔へば見境ひなく女を口説く性質のもので、家庭とビヂネスの境界線が不明となり、まことによろしくないものだ。美人女給といふものも甚だ月並なもので、御亭主と懇ろになれば店に居つくが、さもなければ、いつ誰と消え失せるか、ヒモがついたり、無断欠勤の温泉旅行等々、わがまゝ無礼、元来この節の日本人の飲み助どもときては、女よりは酒、少しでも安く酒、たゞもう欠食児童なのだから、女などあてがうのはモッタイない。なまじ美女など坐らせておくと、こゝの酒は高いと独りできめて隣りの店へ行つてしまふ、高価な食器を使つたゞけでも、一目見てにはかに面色蒼ざめ盃をもつ手がブルブルふるへだす、昔のお客はオイおやぢなどゝ飲み屋の亭主をよんだけれども、当節のお客は、旦那、甚だ相すみませんけど、などゝ一杯ちやうだいに及ぶ風情、筋骨衰弱し、可憐である。
 そこで落合天童は時代のおのづから要求し落ちつくところを再思三考に及んで、彼の自宅の町内の天妙教支部を訪れた。こゝには身寄りのない貧窮家族、病人を抱へたのや、子だくさんの寡婦、頭のネヂのゆるんだのや、狂信狐憑きのやうなのや、十一家族もゴチャゴチャと虱と共に雑居して朝晩タイコを叩いて踊つてゐる。月給千円、食事づきで雇ひたいと申しでると全員にわかに殺気立つて我も我もと申出るのを押しとゞめ一室をかりて一人づゝ口答試問を行ふ。出張テストといふわけで、狐憑き、三度自殺に失敗したといふのもゐるし、筋骨隆々眼光するどく悪憎の面醜の老婆、ほかの人雇つちやダメよ、みんな手癖が悪いからと声をひそめて忠告してくれる女もゐる、いづれも鬼気をひそめ妖気を放つ独自の風格者ぞろひであるが、天童は心乱れず、にこやかに坐つて、一々おごそかに応待する。
 中に一人ビッコ、三十九歳、ヤブニラミの女がゐた。
「あなた、足がお悪い様子だが、運ぶ途中に徳利がひつくりかへるとかコップのカストリがこぼれやしないかな」
「いゝえ、心がけてをりますから、却つてほかの方よりも事故がないんですよ」
「さうですか、ぢや、いつぺん、やつて見せて下さい」
 そこでお盆をかりてコップになみなみと水をみたして運ばせる。すると目のところへ捧げ持つてお盆のフチを鼻柱へくッつけて静々と徐行してくる。慎重に一足づゝすらせてくるからカタツムリの如くにのろい。
「ハハア、つまり神前へオミキを運ぶ要領ですな。然しお酒やお料理を運ぶとき、いつもその要領ぢやないでせう」
「いゝえ、私オミキなんか運んだことないですよ。物を運ぶとき、いつもかうです」
「するとそれは小笠原流ですか」
「いゝえ。私、目が悪いから、目のところへかう捧げてクッツケないと見えなくて危いからですよ」
「乱視だな。近視ですか」
「いゝえ、弱視といふんですよ。目のところへ近づけないとハッキリ見えないのね。だつてコップは透明ですもの」
「ごもつとも、ごもつとも。ぢやア、これを読んでごらんなさい」
 と手帳をだして渡す。目から一寸五分ぐらゐのところへ押立てゝ甜《な》めるやうに読む。試みにお札を数へさせると、やつぱり目のさき一寸五分のところへかざしてノゾキ眼鏡をいぢくるやうに数へる。タバコが好きだといふからお喫ひなさいと箱を渡すとこれも目の先一寸五分へかざしてフタをひらいて一本ぬく。目玉からタバコをぬきだすやうに面白い。
「お客の顔が分りますか」
「人の顔は分りますよ。目の悪いせゐで耳のカンが鋭敏だから、後向きでも、気配で様子が分るんですよ。空襲のとき軍の見張
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