定も、実は長平さんを当てにしていたのさ。こうなると、お酒もノドを通らないね」
「ここの勘定ぐらいでしたら、ぼく、おたてかえ致しておきます」
「え? 君、そんなお金持かい」
「大庭先生からお預りしたお金ですけど、事情を申上げれば了解して下さると思います」
「君、どれぐらい、預ってる?」
青木は卑しげな顔色を隠さなかった。もう、泥沼へおちたんだ。藁一本、にがすものか。ノドからでも手をだしてみせる、という毒々しい決意が露骨であった。
しかしそれを見つめる放二の目はむしろいたわりの翳がさした。
「ここの勘定だけになさっては」
放二は言葉を探していたが、
「ちょッとの水で旱魃はどうしようもありません。生活原理を変えなければ。ぼく自身、旱魃のさなかで考えついたことなんですけど」
青木は驚いて青年を見つめた。
青年は目をふせて、一語ずつ探すように、静かに語っている。あらゆるものに未知な、あらゆる汚れに未知な青年の口から、大らかな言葉が高鳴りひびくのがフシギである。
「君、お金に困ったことなんか、ないだろう」
「そうでもありません」
放二の返事にはこだわりがない。しかし青木はそれを素直にうけとりかねて、
「君、ぼくを嘲笑っているのだろう。金の泥沼に落ちこんだ餓鬼をね」
「そんなことはありません」
「旱魃はちょッとの水じゃ救われないッて、それが、なにさ。金の泥沼は、そんなものじゃないんだよ。金の世界は、その日ぐらしのものさ。一日の当てがありゃ、又、なんとかなる。攻略し、退却し、又、攻略し、まさに絶えざる戦場だよ。まだ、あんたには分らない。分らなくて、しあわせなのさ」
しかし、この青年に敵意はもてなかった。
「君はやさしい心をもってるんだ。そして、ぼくをいたわってくれたんだ。な、そうだろう。ついでに、甘えさせてくれよ」
青木は泣きたいような気持だった。
「長平さんはオレに百万かさないかな。君、たのんでくれよ。二百万でも、三百万でも、五百万でも、多いほど。なア、君。ぼくのノドからは手がでているんだよ」
冗談めかしても、気持は必死になる。それが顔をゆがめた。
「君がもうけさせてくれゝば割り前をだす。もうけの半分君にやる。百万なら五十万。二百万なら百万。なア、君。半分だぜ。こんな割前をだしてもとは、金欲しやの一念きわまれり。鬼の心境さ」
襖が静かに開いた。姿を現したのは礼子であった。
顔の冷めたさは、すべてをきいたと語っていた。
二
青木は礼子のひややかな顔にもおじけなかった。
「ま、お坐りなさい。ぼくの昔の奥さん」
彼はかえってふてぶてしく笑って、
「あんたも、ぼくも、見事にふられたよ。長平さんに。彼氏は来てくれないッてさ」
悪党じみて見せるほかに手がなかった。
「ま、一献いきましょう。なに、お会計は心配しなさんな。北川さんが、ひきうけてくれるとさ。こちらの奥さん、ぼくのフトコロにコーヒーをのむ金もないの御存知なのさ。奥さんだって、帰りの電車賃しかないんだからね。ぼくの方じゃ、車代も長平さんからタカルつもりだったんだが、身代りだから、北川さん、覚悟してくれよ」
「大庭さんはお見えにならないんですか」
「あんたほどの麗人の口説も空しく終りけりというわけさ」
青木の意志ではなかったのに、目に憎しみがこもる。心の窓はかくしきれない。それをまぎらして笑ってみても、悲しさがしみのこるばかりである。
「なア、北川さん。人間は一手狂うと妙なことをやるものさ。この奥さんが大庭君を思いつめて離婚すると云いだす。折しもぼくは八方金づまりで大庭君に救援をもとめようという時さ。二つは別個の行きがかりだが、これが重なると変な話さ。ぼくも考えて、変だと思いましたよ。まるで女房売るから金よこせみたいじゃないか。けれども、そう思いつくと、妙なものさ。変なグアイだから、やりぬけ、やりぬけ、とね。なんとなく悪党らしい血もたかぶるし、負けじ魂もたかぶるしね。いつのまにやら、女房の代金をとる計算にきめているのだ。今だって、そうだぜ。女房はごらんの通りふられてくるし、大庭君は買わないつもりらしいが、ぼくは今でも売りつけるハラさ。是が非でも取引しようというわけさ」
「悪党ぶるのは、よして。私まで気が変になりそうよ。お金の必要なのは分っていますが、誤解をうけるような言い方は慎しむ方がよろしいのです」
「誰が誤解するだろう? どう誤解したって、ぼくの本心より汚く考えようはないじゃないか。ぼくは金の餓鬼なんだ。これが人間のギリ/\の最低線さ。借りられるものは、みんな借りまくッてやる。なに、ひッたくるんだ。かたるんだよ。かたるだけ、かたりつくして、残ったのが、大庭君だけさ」
「私も大庭さんにあなたの窮状を訴えてさしあげたいと思っております」
「奥さんや。ぼくたちの心の持ち方は、どうも、変だ。不自然ですよ。本心にピッタリしないところがあると思うな。ぼくたちは味方ぶりすぎやしないか。不当に憐れみたがってるよ。ねえ、奥さんや。ぼくは君を売る。君もぼくを売りたまえ。めいめいが自分だけの血路をひらいて逃げ落ちようや」
しかし青木は目に憐れみをこめて、
「なア、奥さんや。あんたは大庭君にふられちゃこまるじゃないか。しッかりやッとくれよ。君自身の血路のためにさ」
すると礼子に生き生きと色気がこもった。
「大庭さんは私を愛しています。盲目的に。あの方は私のトリコなのよ」
あんまり自信に溢れているので、放二は目を疑ったが、青木は多くの物思いに混乱した。礼子はさらに生き生きと断言した。
「大庭さんは、もう、私から逃げることはできないのよ。クモの巣にかかったのです」
三
「あなたの梶せつ子さんは、どう? うまく、いってますか」
礼子が、かわって、青木を見下していた。青木が威勢を見せたときは、ありあり虚勢が見えすいていたが、礼子には、それがなかった。心底から落ちつきはらっているようである。
「そう。実は、そのことでね」
青木は素直にうけて、
「長平さんから百万ふんだくってやろうというのも、そのことなんだ。築港の金もいる。選挙費もいる。鉱山の経費もいる。これは開店休業中だがね。金のいることばッかりさ。とても一とまとめには出来ッこないから、まず金のなる木を植えようというわけさ。梶せつ子と共同事業をやる手筈なのだ。銀座裏にかりる店の交渉もついてる。階下が小さなバアで、二階が事務室さ。事務室では、出版とアチラ製品のヤミ売買などやる予定でね。実は、長平さんには、本の出版もさせてもらいたいと思ってるのさ。夜はバーテンもやりますよ。そのために、是が非でも金がいる」
礼子は放二に向って、
「梶さんから、それらしい話おききですか」
「ぼく三週間ほどお目にかかっていませんので、何もおききしておりません」
放二は青木の存在すら初耳だから、まったく知らなかった。
「ですが、あすお会いする約束ですので、そのお話をうけたまわるかも知れません」
「え? 君が、あす、梶さんに会うって?」
青木はおどろいて、顔色を改めて、
「君は、どうして、あの人と……」
「北川さんと梶さんは、親同志親戚以上に親しくしていらした方」
礼子の言葉は信じられないという青木の顔色であった。
「君、いつ、その約束したの」
詰問はするどい。放二の静かな態度はいさゝかも乱れなかった。
「速達をいただいたのです」
「いつ?」
「昨日の午前中でした」
「発信は、どこ?」
「そこまで調べませんでした」
「その速達、見せてくれない?」
「いま持っておりません」
放二は静かに答えたが、実は胸のポケットに在るのである。
青木は解せないらしく、思い沈んでいたが、
「社用で大阪へ行ってるはずだ。五日前にたったんだが、まだ二三日は戻らぬ予定ときいていたが」
「たぶん旅先からだろうと思います」
「あす、どこで会うの」
「ぼくの社へ来て下さるのです。いつとは云えないが、夕方までに必ず行くから、外出中は行先を書残して出るように、と。そんな文面からも、旅先からの便りのような気がします」
みんな放二のデマカセであったが、誰がこの高潔な、気品あふるる青年が嘘をつくと信じられよう。
ところが、青木は疑った。
「君はぼくを警戒してるね」
「なぜでしょうか」
「君はぼくの信じていたことを信じさせるように努力してるじゃないか。余はナレをスパイと見たり」
こう叫んで、カラカラ笑った。冷めたい汗がしたたるような蒼ざめた顔で。
「君は梶さんのチゴサンかい」
青木のカンは鋭い。
四
「じゃア、明日一日中、ぼくを君の社へ詰めさせてくれよ。梶さんの訪れを待つために」
「ええ。どうぞ」
梶せつ子は放二の社へは訪ねて来ない。別の所で会う約束だから、放二はこだわらなかった。
「それから、大庭君にも会わせてもらいたいのだ。是が非でも、たのむよ。拝みます。この通り」
「お気持はおつたえしますが、先生の御返事はぼくには分りかねます」
「大庭君はいつまで東京にいるの」
「あと三四日で、お帰りです」
「なア、北川さん。ぼくは、もう、今夜は君のソバから離れないぜ。君のうちへ泊めてくれたまえ。それがいけなかったら、ぼくの宿へ泊ってくれたまえ。もう、こうなったら、はなすものか。君こそは、わがイノチの綱ですよ。君またワレに憐れみを寄せたまえ」
青木は必死であった。
放二はうなずいて、
「ぼくのアパートでよろしかったら。おかまいはできませんが」
「ありがたい。実に、君は心のやさしい人ですよ。君の善良な魂すらも疑るような、ぼくの泥まみれの根性をあわれんでくれたまえ。ぼくは容赦なく君にあまえるよ。君あるによって今夕の勘定を救われ、君あるによって明日に希望を託し得。いつもギリギリの戦場、最後の線に立てられてさ。敗残兵の自覚がもてないところが哀れでもあり、ミソでもあるというわけらしいな」
青木は安心したらしく、酒をたてつづけに呷りだした。
「北川さん。ちょッと」
礼子は放二を廊下へよびだして、
「大庭さんのお宿は、どこ」
きびしくせまる態度である。
「定宿はありますけれど、そこへお泊りとは限りません」
「定宿はどこですか」
「ぼくの一存で申上げるわけにいかないのです。先生のお仕事をまもるのが、ぼくの任務ですから」
礼子の全身に媚があふれたち、そして、礼子はとりすまして笑った。
「私は、何者? あなたは、ご存じ? あまりに激しすぎる愛は否定的に現れます。なぜなら、罪の意識をともなうから。大庭さんは十年間、私を思いつづけていらしたのです。そして、あまりにも激しすぎた愛でした」
勝利に酔った人のようだ。同じ人が、同じ日のうちに、うちひしがれた姿で長平に向い、生死をきめる返答を与えよと叫んでいたとは、あまり距りすぎた現実である。
この女は、何者? 言われなくとも、この場の当然な疑問であった。狂人? 色情狂かな、と思わざるを得なかったほどである。
「私は十年間、大庭さんにとっては、心の太陽でした。しかし、罪の意識は太陽に叛かせもするのです。その歪みをただすためには、私が身を落してさしあげなければなりません。使徒は受難しなければならないのです。福音と真理のために」
大袈裟すぎるので、放二はふきだすところであった。
「大庭さんのお宿おッしゃい!」
「それも受難の宿命かと思いますが」
と、放二は思わずクスリと笑って答えると、礼子は澄んだ静かな声で、
「私というものを失っては、大庭さんがお気の毒とは思いませんか」
その自信は、使徒の安定を示しているようにも思われた。
五
放二は廊下で礼子に別れて部屋へ戻った。青木はそれと察したらしく、
「あの奥さんは?」
「いまお帰りになりました」
「君をよびだしたのは、お金を貸してくれというのだろう」
「いゝえ、そんな話はありませんでした」
「え? ほんとかい?」
青木は慌てて立ち上って、
「君、すまないが、千円かしてくれ。あの奥さんはお金を持っちゃいないんだ。鎌倉へ帰るぐ
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