エンゼルを忘れようと思っていた。それはエンゼルを悪党と断定した意味でもないし、エンゼルを愛せなくなったという意味でもない。理論や感情を超えた一ツの気配がわかるからだ。エンゼルが自分を愛していないという気配、いくらエンゼルを思ってもムダだという気配がわかるからである。
記代子が経験から得た結論はそれだけであった。彼女の考えも感情も、そこに突き当って、引き返す。つまり、その壁にぶつかって、新しく出発するのである。
そして、壁にぶつかって引き返してきた新しい感情は、青木か、あるいは、そのほかの新しい何か、そう考えがちであった。それは逞しく、強い考えではない。ややヤケ気味の、絶望的なものでもあった。
しかし、絶望的な考え方は、むしろ地道なものであった。彼女は時々空想的なことを考えた。人に使われる身から離れて、独立した職業についてみたい、という考えだ。会社員とか、ダンサーとかいうのではなく、自分がその店の主人公、というような空想であった。そのへんまでは、まだ地道かも知れなかったが、すると記代子はその次にこう考えている。お金持になりたい。そして、誰に気兼もなく、自由奔放に生きたい。
その空想には、極めて現実的な限界があった。彼女の最も近い身辺に、そういう女が実在しているのである。あまり身近かなために、感情的にせつ子を過少評価することは容易であったが、彼女と自分との身にそなわった位の差というものを実感的に脱けだすことは、まず不可能なことであった。
しかし、無理ムタイに脱出できるたった一つの口があった。それは、怒り、逆上である。
記代子は半死半生の経験によっても、冒険や危険に怯える心を植えつけられはしなかった。むしろ、なつかしみさえした。彼女があの怖しい経験から教訓を得たとすれば、あのようなことを再びしたくないことではなくて、あのような場合に処する技法に対する期待であった。それも空想の一つである。かすかな期待はあっても、勇気はないし、自信もない。
記代子はせつ子と睨み合った。彼女を言い負かす言葉はない。しかし、もうこんな家にいるのはイヤだ。今日かぎり、とびだすのだ、と考えた。むしろ閉じこめられていた陰気な空に青空がのぞけたような気がした。
彼女は覚悟をきめると、だまって自分の部屋へゆっくり戻って、カギをかけた。
三
記代子はさっそく家出の仕度にとりかかった。子女の家出に熟慮断行などということは、めったにない。激情的であるから、当人は一時的に悲愴であるが、同時に冷静でもある。時間を失せず、今のうちに飛びださなければ、ということを充分に知りすぎているのである。今でなければ、家出の理由がないし、大義名分がない。今を失すると、再び踏み切るときがないかも知れない。平静の時には自信がないことを知っており、激情にまかせなければ実行不可能であることを知っているのである。
それは家に甘えているせいではない。誰しも家をでれば、寄るべないのは当り前のことである。
記代子は二度目のことであるから、なれているようであるが、こういうことは馴れるというものではないようである。必需品はなんであるか、それぐらいのことには気がつくが、特にこの際に必要な、そこまで冷静な計算ができない。血迷ってもいるし、先の目算がたたないせいもある。
夜の家出というものはグアイがわるい。夜中トランクをぶらさげてブラ/\しているのは都合のわるいことが多いものだ。翌日せつ子の出勤をまって、ゆっくり脱出した方が万事によろしいけれどもそれまで待っている余裕が怖しかった。そこで記代子は、何も持たずに家をでることにきめた。
せつ子はさすがに大人であった。家出癖のついた小娘を怒らせっぱなしに放ッとくのは穏当ではない。折れたり、なだめたりするのは愉快なことではないが、対等にみたてて意地をはるのは大人げない話である。折れてみせて優しい言葉の一つもかけてやれば、その場では打ちとける色をみせなくとも、内々鋭鋒はくじけているものだ。
そこで、せつ子は程を見はからって記代子の部屋をノックして、
「どうしてらッしゃるの? あら、カギがかかってるのね。はいっちゃいけないこと?」
「もう、ねています」
「そう。じゃ、私も戻ってねましょう。さきほどは、ごめんなさいね。でも、あれぐらいのことで血相変えて怒るなんて、オコリンボね。もう、仲直りしましょうね。おやすみなさい」
せつ子はそれで安心して自分の部屋へひッこんだ。これだけ手を打っておけば、記代子は安心して、ねて忘れてしまうだろう。
しかし、こんな動物の匂いのプンプンする因果物のような小娘を、今後どう処置したらいいのだろうかと考えると、ウンザリしてしまう。放二も悪い時にねこんでしまった。記代子から必要以上の動物臭をかぎたてるのも、こういう間の悪るさのせいもある。
「男の方が利巧らしい」
せつ子は苦笑した。吾関せずの長平が、憎らしいが、なつかしまれる。彼の冷淡さに理があるように思われるからであった。
「あんなことを言って、子供だましのようなお世辞なんか使ったって、だまされやしないわ。まるで悪るがしこい狐のよう」
記代子の鋭鋒はくじけなかった。記代子はすでに覚悟がついてしまっていた。否、家出後の暫時の目鼻がほぼリンカクをなしていたのである。せつ子は程を見はからいすぎて、時を失したのである。
せつ子の訪れは、却って落付きと、かたい決意を与えたようであった。まだ九時ちょッとすぎたばかりだ。記代子は人々の気配に耳をすまして、せつ子の家から忍びでた。
四
社がひけてから、二三ヒマをつぶして、青木はゆっくり宿へ戻ってきた。すると、一足おくれて訪ねてきたのが記代子であった。
記代子は彼に笑顔すら見せなかった。突ッ立ったまま、
「ここにはいられないのよ。てもなく発見されてしまうわ。どこか、社の人たちに気づかれない旅館へ案内して」
頭上から噛みつくようにイライラと命令する。
「慌てることはないでしょう。お茶でも召しあがれ。アッ。なるほど。どなたか、お連れの方が表に待たしてあるんですね。遠慮なく、よんでらッしゃい」
青木はバカに察しがよい。敗北精神が骨身に徹しているのである。心にうちしおれたりとは言え、表には益々明るいホホエミをたたえて敵をもてなそうという志であった。
「連れなんか、ないわ」
「ヤ。失礼。すみません。ぼくは、ダメなんだ。すべての栄耀《えいよう》は人に具わるもの、そねむなかれ、という呪文を朝晩唱えるようになったからね。しかし、あなたが丈夫になって、ぼくも嬉しいです。世の大人物はあげてぼくを虐待するからね。陰ながら、病室の外まで見舞いに行っていたのを知っていますか」
青木がなれなれしく話しはじめたので、記代子は苦々しくふりきって、
「つまらない話は、よして。見舞いにきたのが、どうしたッていうの。見舞いに来てほしいなんて、思ってもいなかったわ。私、こゝにグズグズしていられないわ。梶さんのおウチから、とびだしてきたんです」
「なアンだ。社長殿の邸宅にかくまわれていたのですか」
記代子は舌うちした。
「卑しいわね。そんな興味を、いつも持っているのね。人の私生活に興味をもつなんて、卑しいわ。グズグズしないで、旅館へ案内しては、どう?」
「そうガミガミ云うことはないですよ。さッそく支度をしますけどね。人にはガミガミお金にはピイピイ、あわれなる宿命だね。しかし、あなた、社長邸をとびだして、旅館へ泊って、いかがなさるのですか」
「うるさい!」
記代子はカンシャク玉をハレツさせて、一喝した。妙齢の女子が、かりそめにも男子に一喝をくらわせるとは、由々しいことである。女中や下男に向ってそんなことをするかも知れないが、同輩に対する習慣にはないことである。
しかし、青木は怒らなかった。むしろ記代子をあわれと思った。その墓碑銘に「多難なる生涯を終りたる娘」と書くに価する悲しい人生を経てきた娘が数多くいるはずのものではない。記代子などは例外だった。
「カンシャクを起したくもなるだろうさ」
青木は深い愛情をもって記代子を見ていた。それは同族に対するあわれみの念でもある。記代子のようなアワレな娘には、踏んだり蹴ったりされても、トコトンまでイタワリを果すユトリを彼は身につけていたのである。
「さ。では、旅館へ御案内いたしましょう」
「あなたが泊るのではありません。案内したら、帰っていただきます」
「御意のままですよ」
「昔のことは、もう、すんだことだわ。親しい名前や言葉で話しかけるんだって、失礼だわ」
「わかりました」
「私の旅館、知ってるのは、あなただけよ。ですから、あなたにしていただく用があるから、明日の朝、来て下さるのよ」
「承知しました」
五
翌朝、青木は早めに出勤の支度をして、旅館の記代子を訪問した。
早く目をさましたものとみえ、朝食もすませ、服装も化粧もキチンとして、所在なさそうにしている。
「よく眠れましたかね」
記代子は目をけわしく光らせて、
「私を探してきた人はなかった?」
「まだ、きません。で、御用というのは、何でしょうね」
複雑なかげりが記代子の顔を走った。まだ思案がついていないのではないか、と青木は思った。しかし、記代子が漠然と志向しているものは何だろう? それを思うと、青木は背筋を冷いもので触られたような不安を感じた。
「ねえ、記代子さん。あなたが再度の失踪に当って、ぼくを下僕として選んで下さったことを、しみじみ感謝していますよ。昨夜御命令によってお約束した通り、ぼくは最良の下僕としてあなたに奉仕いたしますよ。決して下僕以上の位をのぞみやしません。ですから、あなたが予定していらッしゃること、あるいは、まだ思案がきまらないようなことでも、みんな打ちあけて下さいませんか。むろん下僕ですから、御相談のない限り、こうなさい、ああなさい、などと差出口はいたしません。ただ御言い付けに従うだけです。ですが、下僕といえども味方の一人ですから、たった一人の味方として、予定の内容をもらしていただきたいというわけです」
「あなたの前夫人に会いたいの。ここへ来ていただいてもいいわ」
「え? 礼子ですか」
「礼子さんとおッしゃい。もうあなたの奥さんじゃないでしょう」
「すみません。ですが、こまったなあ。礼子さんの住所を知りませんのでね。夕方、仕事場へでてからじゃア、おそいでしょうな」
「バーできいてごらんなさい」
「なるほど。ですが、銀座のバーというものは、たいがい留守番の住む場所もないのが普通なんですよ。礼子さんのバーは、特に地下室のウナギの寝床のようなところで、便所以外に付属室はないだろうと思いますね」
「行って、たしかめてみてからになさい」
記代子はいらだって叫んだが、彼女の顔には、地下室ゆえに泊り部屋がないことを確認した狼狽がかすめて流れたのを、青木は見ている。それをムリに押しつけて、いらだって青木を怒鳴りつけているのは、彼女のワガママである。
順境にあれば礼節をわきまえ、逆境ゆえにむしろワガママになりがちなものではあるが、おのずから限度がなければならない。逆境の人が、甘やかされて、いい気になっているなどとは、哀れサンタンたる戯画である。そこまで、悲しく無知な姿を捨てておくのは、見るに忍びないから、
「なア、記代子さんや。下僕はいかなる命令にも従うべきではありますがね。しかし、銀座のバアへ行く。扉を叩く。鍵がかかっている。むろん無人にきまっています。あなたも無人だということが分っていらッしゃると思いますよ。ぼくがムダ足をふむのが、何かあなたのお役に立ちますかね。かかる命令が可能であると信じる人は、すでに人間の仲間ではありません。失礼ながら、記代子さん、あなたは逆境の人ですよ。ぼくが下僕の役を奉仕するのも、その逆境に対するきわまりない共感ですよ。逆境の人は、まさに人間中の人間でなければなりませんね」
逆境のネロ皇帝なんて、道化芝居にもありませんや、と云うところをグッとおさえた。
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