紙のようにフッとんだが、倒れた上へヤエ子がとびついたのは殆ど同時であった。馬乗りになってクビをしめたが、ウッと声をあげたのは、押しつけているヤエ子である。頬をつねった。目のフチをつねった。あとはメッタヤタラに顔面をなぐった。狂気のようである。
他の女たちがようやくヤエ子を距てたが、ルミ子の唇がきれて血が流れている。
「殺せ! はやく、殺せ!」
とり押えられたヤエ子は足をバタバタさせて叫んでいる。
「なにが、殺せ、さ。ルミちゃんを殺しかねないのは、あんたじゃないか」
「ヘッ。それが、どうした。お前だって、ルミ子が死んじまえばいいと思ってやがるくせに。アタイはアイツが憎いんだ。自分だけ、部屋をもって、羞しくないのかよ! アタイたちが宿なしで、うれしいだろう! 畜生!」
ルミ子の顔色が変った。
「ここを、どこだと思うのよ」
「チェッ! なんだと。どこだって、かまうかい。お前が、ここの、何なのさ」
ルミ子は語るにも叫ぶにも窮して、涙があふれた。ヤエ子はそれを憎々しげに見すくめた。
「フン。結構な御身分さ。自分だけがこの部屋のヤッカイ者じゃないと思ってやがる。オレたちは貧乏だよ。金がないんだよう。金がありゃ、誰だって、思うことができるんだ」
十一
「思うことができるなら、静かにしたら、どうなのね」
と、一人がたまりかねて、たしなめたが、
「よせやい。アタイ一人が悪いのかい。わるかったネ。お前たち、お金あるのかい。ヘソクリがあるなら、正直に言いなよ。アタイだけが、一文なしの、宿なしだと笑いたいのかよ。叩ッ殺してやるから、笑ってみやがれ。オイ。笑えよ!」
「勝手におしよ」
一同はウンザリしてヤエ子を突き放した。部屋にいて喚きたてられては困るから、
「オフロへ行こうよ」
「そうしましょう」
と、一同は仕度をはじめる。ヤエ子は腕ぐみをしてジロリと一同を見上げて、
「フン。アタイにオフロ銭もないのが、うれしいのか。見せつけたいのかよ」
「うるさいね。オフロ銭ぐらい、だしてやるよ。いつだって、そうしてもらッてるじゃないか」
「いつも、そうで、わるかったな」
「だまって、ついてくるがいいや」
「バカヤロー。オフロ銭ぐらいで、大きなツラしやがるな」
一同はヤエ子にかまわず、オフロへでかけた。ヤエ子は目をなきはらして便所へとびこんだが、実は便所の窓から、道を行く彼女らの後姿をうかがっていた。
ルミ子が自分の部屋へもどって、オフロ道具をかかえて、彼女らを追うて去る姿を見ると、ヤエ子はようやくホッとした。彼女らの姿が見えなくなり、しばらくしても戻ってこないのを認めて、ヤエ子は便所をでた。そしてルミ子の部屋の戸をあけた。
「ルミちゃんの着代え、とりにきたのよ。オフロ屋の前のドブへはまっちゃッたのさ。トンマなヤツなのさ」
ヤエ子は長平の存在などは、眼中になかった。パンパン宿へ一週間も泊りこんでいるジジイに利巧な奴がいる筈はない。助平の甘チョロにきまっているのである。
ヤエ子は押入をかきまわした。行李が一つある。彼女はそれを、ゆっくりと、五分ぐらいも、中身をしらべていた。
「なにをしてるんだ。早く着代えを持って行ったらどうだ」
長平がジロリとふりむいて言っても、ヤエ子は平気であった。
「ちょッと中身を見ているのさ。あんまり、たくさん持ってるから、目がくらまア。コチトラは着たきり雀だから、ビックリすらアね。へ。ずいぶん派手に、買いこんでやがら。パジャマ三枚もってやがら。人をバカにしてやがるよ。コチトラ、シュミーズの着代えもありゃしないよ。ズロースもね。エッヘ」
最後のワイセツな言葉と笑いは、長平にあびせかけたものである。
とうとう虎の子のありかを探しだした。銀行の通帳と一万円余の現金であった。彼女は行李の中のものを片づけて、
「これがキモノか。これがジュバンだ。このフロシキに包んでやれ。ヘッ。ズロースと、お腰も持ってッてやろうかな」
と、又、長平に嘲笑をあびせかけて、包みをかかえて悠々と消えてしまった。
風呂から戻った一同は、これを知って、被害者のルミ子よりも顔色を失った。
ヤエ子の宿命と自分たちの宿命が、遠く離れたものでないことを、彼女らは身にしみて知っていたからである。ヤエ子は追われて立ち去ったのだ。追われる圧力を彼女らも身にしみている。まだしもルミ子の物を盗んだヤエ子は賢明だ。彼女らの心にうごいたものは、羨しさであった。
十二
長平はヤエ子の泥棒ぶりに感心した。よほど天分があるようだ。痛快になめられたものであるが、腹をたてる余地がない。
彼の存在を眼中になく、行李をあけて十分ちかく金品を物色した落付きというものは、水際立っている。このとき彼の存在というものは、地上で最もマヌケ野郎に相違ない。おまけに、ズロースや腰巻などゝ適切なカイギャクを弄して、マヌケの上に怪《け》しからぬ根性に至るまで心ゆくまで飜弄しつくして退散しているのである。
しかし、考えてみると、今までにこういうことが起らなかったのがフシギなのだ。ろくに稼ぎもないくせに、ムダ食いやムダ使いがやめられない五人の宿なしパンパンが、今まで泥棒しなかったのが珍しい。
放二をめぐる生活の雰囲気が、彼女らの情操を正しく優しくさせていたと見るのは当らないようだ。盗みをしない方が、確実に生活安定の近道だったからである。雰囲気などゝいうものは、その安定を見定めた上で現れてくるセンチな遊びにすぎない。
盗みをはたらく条件をそなえている人間が、雰囲気の中で妙にセンチにひたっているよりも、盗みをした方が清潔かも知れない。ヤエ子の大胆不敵な盗みッぷりから判断しても、こう判定せざるを得ないのである。雰囲気などというものは、実際は無力なものだ。
しかし、ついに雰囲気がくずれたこと、つまりは生活安定の見透しがくずれたということについては、それが人生の当然ではあるが、無常を感ぜずにもいられない。
放二の息のあるうちに、それが行われるというのは、まことに皮肉でもあるし、滑稽でもあるが、これが放二の善意に対する当然な報酬かと考えると、悲痛な思いにうたれもした。
彼の冷たい判断からでも、放二の善意を若気のアヤマチと言いきれはしない。感傷とは言いきれない。しかし、たとえば彼の善意が神につぐものであったにしても、その報酬がこんな結果に終るというのは、人間の世界では当然すぎるのだろう。そして、放二は、それにおどろくような男ではなかろう。彼はほぼ全てのことを知っていた。
長平は放二のとこへイトマを告げにでかけた。
「どうだい。いっそ、御一統に自由に解散を願ったら。一葉落ちて、秋来れりさ。一葉ずつ、妙な落ち方をさせない方が、サッパリしてよかろう」
こうズケズケ言うと、放二は笑って、
「先生は貧乏人の心境をお忘れですね」
「そうかい」
「宿がないということと、タヨリがないということは、やりきれないことなんです。ギリギリのところへきてしまえば、自然に何とかなるものですが、さもなければ、解散しても、結局ここを当てにすると思います」
「なるほど」
「人間は、すすんで乞食にはなれないのですね。三日やればやめられないと分っていても」
「なるほど。秋がきても、気にかからなければ結構さ。じゃア、帰るよ」
「御元気で。長らく有りがとうございました」
長平が離京するとき、ルミ子が送ってきた。
「いい加減で帰りたまえ。別れ際の時間は短いほどよろしいものだよ」
長平が彼女を帰らせようとすると、
「セッカチね。私の方が大人だなア。一度、手紙を差しあげるから、忘れないでね」
ノンビリ手をふって、二人は別れた。
新しい風
一
せつ子は退院後の記代子をひとまず自宅へひきとった。甚だ好ましくなかったけれども、隙あらばと記代子の病室をうかがっている青木を見ると、他に安全な保管所が見当らないから、仕方がなかった。
記代子の顔を見ることが他にたぐいる物がないほど不快なことだということを、ひきとってから気がついた。
記代子の入院中、ウワゴトの中で叫んだ言葉は「エンジェル!」という名にからむものばかりであった。
せつ子に何より不快なのは、それだった。記代子が居ると、その背後に、エンゼルという動物めいた悪者がいつも一しょに影を重ねて居るようで、動物の匂いがプンプン漂ってくる気がする。記代子が住みこんだばっかりに、わが家に動物小屋の悪臭がしみついてしまったようであった。
記代子を見ると、目をそむけたくなるのをこらえようとすると、冷めたくジッと見つめてしまうことになる。ある日、記代子が言った。
「憎んでらッしゃるのね」
記代子は、退院の日、なんとなく希望がわきかけたような喜びを感じた。希望というものが全て失われたように、前後左右たちふさがれた切なさに苦しめられたアゲクであった。はじめて小さな爽やかなものに、すがりつくような喜びで、退院したが、それも再びどこかへ没してしまったようだ。この明け暮れ、人生の希望を知るのに骨が折れた。人々が、だんだん憎く見えるのである。
「私、憎まれるのは平気なんです。それが当然ですものね。ですけど、矛盾がイヤなんです。憎みながら、保護して下さるのは、なぜ? その『なぜ』にもっと早く気がつけば、私もマシな生き方ができたでしょうに」
バカな人間に、尤も千万な言いがかりをつけられるぐらい、興ざめることはない。せつ子は自分の人生が、いつもそのことで悩まされているような気がするのである。結果の事実としては尤も千万であるけれどもツラツラ元をたずねれば当人がバカのせいだということを、全然忘れているのである。
記代子の背に青木の影が重なっているだけでもイヤだったのに、エンゼルの影も重なっている。動物臭がプンプン匂っている。それはみんなバカのせいだ。
「あなた、今になって気がついたのは、そんなことなの? そのほかに、気づかなければならないことが、ないのかしら?」
「でも、憎んでらッしゃるでしょう。それに答えてよ」
「さア。憎んでいますか。あなたが憎まれてるンじゃないでしょうか」
「おんなじことよ」
「あなたの場合、憎まれているか、いないか、そんなことを考えるのが問題ではないのよ。人々に憎まれる原因について、考えなければならないのよ。あなたも散々苦労なさッたでしょう。そのアゲク、私に憎まれているか、いないか、ようやくそんなことだけ気がつくようになったとしたら、ずいぶん悲しいじゃありませんか。人々はあなたに期待しています。あの大きな試錬の中から、あなたが何をつかみとってきたでしょうか、と。あなたの場合、私という存在は、とるにも足らぬ問題よ。あなたは男性というものに、どんな新しい考えを、つけ加えるようになりましたか。青木さんについて、エンゼルについて、あなたが新しく知り得たことは、どんなことでしたか。それについて、真剣に考えたことがありましたか」
二
せつ子の言葉は利巧ではなかった。
人は誰しも忘れたいことがあるものである。特に記代子の場合などは、悪夢のたぐいで、遺恨は骨髄ふかく血みどろに絡みついているのだ。遺恨の深さというものは、バカと利巧にかかわりなく、差のあるものではない。
その経験を生かせ、というのは、理窟はそういうものではあるが、人間の実状に即したものではない。利巧でも、そうはいかない。
まして男女関係というものは、ハタの目からは割りきれても、当人にとっては永久に謎という性質のものである。人間関係というものは合理化しきれるものではない。常に個々独特である。
悪夢は忘れるにかぎる。バカは死ななきゃ治らない、というのはその人間の墓碑銘としては、よく生きた、という意味に当っているかも知れない。バカでなかった人間よりは、精いっぱい生きているのだ。精いっぱい生きて利巧であったという奴はまずいない。
しかし、人間は、人のバカさ加減まで、いたわってやるほど、親切である必要もないにきまっているだろう。
記代子は
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