六
青木は持ちまえのカンの良さで、いろいろのことを察しとった。
礼子に会いたいという記代子の希望は、それか彼女の本当の希望ではないのである。彼女の希望はいろいろあるが、いずれも不可能にちかいことばかりで、実際に望むものには手をだすことができないのである。
礼子に会いたいというのは窮余の策で、たまたま青木がいるために思いついた程度の、彼女自身きわめて気乗りのしない希望であるに相違ない。彼女が益々不キゲンなのは、そのためであろう。
記代子のような暗い過去をもった人間が、そして、暗い過去を生かす才能に欠けている人間が、今後の身の振り方をいかに定めるべきであるか、ハタの目からも途方にくれる問題である。
まず青木の頭にひらめくのは自分自身のことであるが、記代子はすでに物の見方がよほど変化している。結婚によって青木が記代子を幸福にする条件は、すでに失われているようであった。
しかし、下僕として犬馬の労をつくしてやることによって、哀れサンタンたるこの娘を多少とも安全地帯へ誘導することができるなら、一文の得にならなくとも、思い出として決して不快なものではないだろう。
「なア、記代子さんや。何用で礼子さんに会いたいのか、ぼくには分らないが、あの人自身が全然迷っている子羊で、あなたに貸す智恵は持ち合せッこないですよ。あなたとは性格もちがいすぎる。いいですか、記代子さん。礼子さんの今いる位置は、人がもって範とすべき位置ではないです。彼女自身が、それを良く知っていまさアね。やむを得ず、あんなことをしているだけで、当人は足を洗いたくて仕様がないのですよ。あそこまで落ちて行くのは、誰だってできまさアね。なんの苦労もなく、誰でも、なれる。礼子さんに相談することはないですよ。ね。もしもあなたが、今後いかに生くべきかという問題で、誰かに相談したかったら、礼子さんは相談相手として、まず第一の失格者です。もっとも、消極的な意味では、よき相談相手かも知れません。なぜなら、彼女はあなたをいさめるに相違ないからです」
いさめたって、どうにもなりやしない。記代子のような平凡な女には、身の程を知らせることが何よりだろうと青木は思った。
思わぬ多難な経験によって、彼女は凡そふさわしからぬ異常世界を身近かに感じ、自らの生活をもそこに投入しつつあるが、この食い違いが本人自身で気付かなければ、彼女の本当の生活は生れやしない。
言葉で言ってきかせてもダメ。短期に功をねらってもダメだ。長期の時間を覚悟して、ある特定の環境の中で、身の程を思い知るまでジリジリ待つことである。平凡な男と平凡な結婚生活をねがうようになるまで――それが彼女の性格や智能に最も適合した生活なのである。
「なア。記代子さん。京都へ帰ろうよ。ぼくがお供しますよ。なに、社長邸をとびだしたって、家出でもなんでもありゃしないよ。あなたの家は京都にあるのさ。ね。長平さんは怖いオッツァンのようでも、人間の本心にふれてくれるよ。今まではあなたに分らなかったが、ぼくと一しょにこれから帰ってみると、よく分るです。ね。すぐ京都へ行こう。一分一秒も早く。こんな東京なんか、すてちまうのさ。ぼくは京都まで安全にお送りして、すぐ戻りますよ。旅行の支度をしてくるから、三十分だけ待ってて下さい」
記代子を承諾させて、青木は大急ぎで宿へ戻った。
七
青木が宿の前までくると、せつ子の自家用車がとまっている。シマッタと思ったが、もうこうなったら、逃げ隠れはしない方がよかろうと覚悟をきめた。
玄関をはいると、せつ子が宿の人たちから色々何かきいているところであったが、青木を認めてサッと面色を改めて詰問にかかろうとするのを、そのヒマを与えず、
「ヤ。わかっています。まさしく記代子さんは、昨夜ぼくを訪ねてきました。そして、たしかに、ぼくが保護いたしております。全部お話いたしますから、ぼくの部屋へきていただきましょう。実に、三人目。いやはや、目も当てられねえや。三方損の三人目。ね。あなたは分って下さらないかも知れないねえ」
穂積もせつ子と一しょであった。せつ子は青木の部屋を見まわして、記代子の残した動物臭をかぎわけているらしい様子である。いかにも重大決意を蔵するかのような静寂な態度に、青木はウンザリして、
「ねえ、社長さん。嵐の前の静けさですか。しかしですよ。もしもあなたが、今度のことで、ぼくに向って何かの遺恨があるとしたら、そして大いにぼくを面責なさろうというお考えなら、天下の、イヤ、東京の、ハッハ、だんだん小さくなりやがら。とにかく、奇怪事であるですよ。たまたま記代子さんが僕をたよって逃げて来た、ね、ぼくたるや、大過去のインネンはとにかくとして、さしあたって何の責任がありますか。むしろ、逃げられたあなたは、あなた自身の責任を感じ、あわせて、彼女を無事保管の任を完《まっと》うせるぼくに向って感謝の意を表して然るべきではないですか。あなたの態度は常にあなた自身の感情に即してはいるが、物の当然しかるべき理に即してはいませんな。けだし、記代子嬢があなたの邸宅を逃げだしたのも、直接の原因は、そのへんにありと見たのはヒガメですか。どうもね、とかく御婦人は暖冷ただならぬものではあるが、あなたは格別だね。その冷たるや、冷血動物以下、ぼくがツラツラ案ずるに、大そう水ムシによく似ているです。足にできる水ムシのことですよ。あいつは痛くもカユくもないが、実に無残に肉にくいこみ、一生涯、なんとしても治らんです。実に、一生涯ですよ。死ぬまでですよ。死んでからでも、足の指のマタにハッキリくいこんでまだ生きているのですよ。見たわけじゃアないがね。そうに、きまッてらア。実に、人生に最も酷薄なるものは、水ムシの如くに、痛くもカユくもないです。そして生涯、死んでからでも、肉にくいこんで、かみついているです。けだし、あなたは、水ムシだね。実に酷薄ムザンだね。小娘はジタバタするのが当然さ。痛くもカユくもないという生涯ムザンの酷薄なるものに、ジッとこらえていられるのは、拙者、つまり蛙、イケシャアシャアね。それあるのみさね」
せつ子はちっとも騒がず、
「そう。記代子さんを無事保管していただいて、ありがとう。いま、どこにいますか、記代子さんは」
「その御返事はハッキリおことわり致しますよ。彼女は、あなたとは縁なき衆生です。たぶん、ぼくと彼女とも、多かれ少なかれ縁なき間柄であるらしいようですがね。念のために、それだけはお伝えしておきます。ぼくは彼女を路傍の一人として保護いたしておるにすぎません。今や、なんの親密なる関係もありませんや。ぼくは只今より彼女を京都の叔父なる人のもとへ送りとどけてきます。その旅装のために戻ってきたのです。彼女は今夜は京都の叔父のもとに無事安着するに相違ありませんから、だまって引きとっていただきましょう。言語無用。だまったり。だまったり」
八
せつ子は事の判断に於ては、感情に走ることはなかった。青木の意向が、記代子を無事長平のもとへ送りとどけることに専一であると見てとったから、
「わかりました。本当にお世話様ですね。では、御手数でも、おねがい致しますよ。大庭先生に、よろしくね」
青木は思わずホッとして、のぼせた頭に、血がクラクラと離合集散、彼は冷汗をふいて、冷茶をグッと一パイのみほした。
「ヤ。どうも、ありがとう。理解していただいて、幸福です。そういっていただくと、穴があれば、はいりたいですよ。なに、それほどでもないですか。ハッハ。あなたは処世の達人さ。女ながらもアッパレさね。ぼくもね。三方損の三人目とか、覆水盆にかえらずとか、近代イソップ物語の原理についてウンチクをかたむけたいところがあるですが、今日は急ぎますから、失礼します。御無礼の段、平に御容赦」
青木がこう言い残して別れようとすると、せつ子はよびとめた。
「お待ちなさい。車がありますから、東京駅まで送ってあげるわ」
「ヤヤ。それは、いけませんね。無茶なことをおッしゃるなア。後で八ツ当りにやられるのが、ぼくですよ。八ツ当りならよろしいが、三たび姿がかき消えまさアね」
「その心配はありません。第一、東京生活をきりあげて帰郷なさるのに、オミヤゲも買ってあげなければいけないでしょう。その機会がなければとにかく、機会があって、手ブラで帰せると思いますか」
一々もっともである。自分の家から失踪したまま京都へ戻ってしまうのを黙って見過すということは、後味の悪い話である。せつ子に、記代子の帰郷をひきとめる意志のないのが分っているから、青木は彼女の気持も尊重してやる必要があると思った。
「わかりました。おッしゃることは、ごもっともです。ですが、くれぐれも御手ヤワラカにねがいますよ」
記代子の宿へ案内した。二人をどんなふうにひきあわしたものかと青木が思案していると、せつ子は委細かまわずズカズカと先頭に部屋へ通って、
「アラ。記代子さん。御無事でよかったわ。京都へお帰りですッてね。ほんとに、それが何よりよ。何をプレゼントしましょうね。銀座の商店は、ちょッと開店に間があるから、デパートから廻りましょうよ」
デパートをまわり、銀座を廻り、出来合いではあるが最新型の高級服を買って、着代えさせる。帽子、靴、ハンドバッグに、その中の品々まで一式。トランクも買いこんで、身の廻りの品々。フランスの香水に至るまで。右往左往、ひきずりまわされる青木は、アア、大変な買物だ、この支払いだけでも、わが社の会計係は月末に一苦労だなア、桑原々々、とついて行く。
最後に二人を大阪行特急の二等車へ送りこんで、
「じゃア、お気をつけて。大庭先生によろしくね」
こうして二人は京都へたった。
「ねえ、記代子さん。彼女は敬服すべき手腕家だよ。しかし、金のかかる手腕だなア」
記代子もつりこまれてニッコリして、
「ほんとね。私のようなチンピラにまでこんなことして、叔父様なんかにはどんなプレゼントするのかしら」
「ナニ、長平さんにはお金いらずのプレゼントがあるのさ」
と青木が皮肉ると、
「ヤキモチヤキね」
横目で睨んだ。記代子のキゲンは直っていた。
九
青木は半日の汽車旅行で、女の一生ということを変にシミジミと考えさせられた。子供をもたない彼は、そういうことを身にしみて考えたことがなかったのである。
記代子の多難な経験は、彼女に多少の悪変化を与えたが、三文の得にもならなかったようである。目立った変化といえば、彼女は頑固になっていた。過去のアヤマチを後悔せず、むしろアヤマチとして見ていなかった。自分の過去を客観的に省察してその結論を得たのではなく、人々への敵意によってアヤマチと見ることをテンから拒否しているのである。人の批判もうけつけない。人の言葉を感情的に反ぱつする完全な城壁をかまえたが考えることを失ってしまったのである。過去のいかなる経験も、生きるはずがないのである。一そうバカになったようなものだ。
しかし、記代子一人のことではないだろう。日本の多くの娘たちが、似たり寄ったりに相違ない。要するに、日本の女というものは、家庭の虫のようなものだ。物質的、精神的にも、義理人情を食餌にして一生を終るように仕込まれている。義理人情にとっては、批判というものは無用の長物、あっては困るものである。記代子のように、一見、義理人情にも突き放され、世間から孤立させられた立場に立たされたようでも、義理人情から解放されたわけではない。義理人情を省察し、自己を省察することを知ったわけではない。むしろ、義理人情に縋ることしか知らない魂が、その義理人情にも見放されたことに対する咒咀《じゅそ》と、益々依怙地な敵意と、自己保存慾があるだけのことである。
こういう女でも、男に愛される資格はある。青木が悲しく結論し得たことは、それだけであった。経済的に独立し得たところで、彼女の幸福はあり得ないだろう。なぜなら、彼女は義理人情の外には安住できない女だからである。
男の愛情を当にする
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