のままだ。山の中には七八百年来の建物があるし、川をさかのぼれば、遠い王朝のころと同じ自然の中で同じような生活をいとなんでいる農民たちがいる。
古都の自然は美しいが、それが青木には暗く切なく見えるのである。千年来の古都の庶民の暗い生活が目にしみる。山々の緑の木々の一本ごとに千年来の人骨がぶらさがったり、からまったりしているような気がする。賀茂川が洪水ごとに山に向って逆流して、河原一面にすてられた屍体を山へ運んでまきちらし、山々だけがいつまでも変らぬ緑を悲しくとどめているような気がする。その骨の一本が自分だという気がした。
「京都の山の木の一本が、オレだったのさ。それを見てきたんだよ。なんのためにオレの心が京都へ行こう京都へ行こうと叫び立ったのかと思ったら、つまり、こんなことだったらしいや」
青木はこう長平に語って、カラカラ笑いだしたが、
「なア、長平さんや。あんたが、又、昔のように、オレとユックリ酒をのんでくれるところを見ると、オレの心が、いくらか落ちついてきたのかなア。イヤ。こんなことを云ったって、君にへつらってるワケじゃアないのさ。オレはね、自分の迷いが自分だけじゃア防ぎとめられないことが分ってきたらしいのさ。だんだん、いろんなことに、あきらめるようになったのさ」
青木は一ぱいごとにたのしんで何バイも酒をかさねた。
「君はいつも、仏像みたいに、だまっているなア。なんにも返事をしてくれねえや。しかし、君の人相は、いい人相だ。オレは安心して、なんでも喋っていられるよ。昔から、君は、そうだったよ。だが、あのときに限って、どうして、そうじゃなかったのだろう? え? ねえ、長平さん。オレにだって分ってるよ。決して人に愛されるようなオレの姿ではなかったことがね。しかし、オレは、真剣で、必死だったんだ。そんなことは、手前勝手なことには相違ないが、君だけは、そこを見てくれると思ったんだがなア。教えてくれよ。なぜ、怒ったのさ」
「知らないね。オレはお天気まかせだよ。しかし、真剣、必死というものは、自分ひとりでやるものだよ。だが、そんな話はよそうじゃないか」
「そうか」
青木は、また、杯をかさねた。
「たしかに、いいことだ。こうして昔の友だちと静かに酒をのむことは、ね。いろんなことが、しみるように、分りかけてくるよ。まず、ひとつ、ハッキリ分ったことがあるよ。曰く、覆水盆にかえらず、ということだ。ありがたい。これで、オレは、ホッとしたなア」
十一
「これが分っただけでも、オレは安心して、東京へ帰れるよ。覆水盆にかえらず。人倫は水のように自然のものなんだ。ひっくりかえって流れた水は、どう仕様もねえや。もっとも、自然に元へ集ってくれるなら、それも良しさね。とにかく、自然でなくちゃア、ダメなんだ。しかし、人間はミレンですよ。覆水を盆にかえそうとしたり、盆にかえりうるものと希望をすてなかったり、ね。思えば、ぼくはそのミレンとナレアイの遊びをしていたようなものさ。ねえ、長平さん。ぼくは老いて益々迷いに迷う人間になりましたよ。しかし、迷いのタネを過去に持ってはダメなんだね。白骨をさらすまで、水のように、迷いはただ盲メッポウ先へと流れるべきものですよ」
青木の苦笑は明るかった。
「ぼくはちかごろ、三方損ということを考えていたですよ。ただ今、覆水盆にかえらず、を会得するに至って、三方損の考えが生きたものになりましたね。喧嘩両成敗はあたりまえのことでさア。両成敗、両方損、両名は当事者だから、文句なしに、成敗や損をあきらめるのさ。ところが、ここに、すべて物事には当事者ではない三人目がいて、三成敗や三方損というマキゾエをくらって、ついでに損の片棒だけをかつがされている運のわるい奴がいるものさ。まったくですよ。人生の諸事諸相には、かならずこのトンマな三人目が隅ッこでブウブウ言っているものさ。長平さんにあてつけるわけではないが、いつのまにやら、長平さんと梶せつ子がよろしく両成敗の当事者となっている隅ッこで、いつのまにやら三人目の一方損をひきうけてブウブウ言っているのがワタクシさ。御両氏を両成敗と言っては悪いが、しかし、人生、すべてはいずれ両成敗ですよ。それは分って下さるでしょう。ヒガミではありませんやね。だが、長平さん。オレみたいに、人生の大半を三方損の三人目で暮してきた奴はいないよ。三方損の運命に、甘んじるべきや、否や、これ実に、小生一生の大問題、面壁九年の一大事であったです。しかし、面壁、一週間足らずで、解決したね。三方損。よろしい。ねえ、長平さん。ハッキリ、よろしいのです」
「そう簡単には、いかないだろうよ」
長平は机上から一通の封書をもってきた。
「この速達は、今、きたところだよ。北川が重病でねこんだそうだ。死ぬかも知れないらしいね。ルミ子というパンパンが知らせてくれたんだよ」
青木は手紙を読んだ。簡単な文面だった。放二が病床について、四十度の熱がつゞいている。入院をすすめても、きいてくれない。入院の費用で困っているわけではなく、放二の頑固なのに困っているだけだが、入院して充分の手当をうけるようにすすめてくれないか、という依頼であった。
「ぼくは明朝上京するが、君は、ここにブラブラしていても、かまわないぜ」
「イヤ。ぼくも上京しよう。おもしろいことになりそうだ。君は主として北川君を見舞うらしいが、ぼくは記代子さんを見舞うとしよう。しかし、なア、長さんや。記代子さんが重病で放浪の旅から戻ってきてもビクともしないという心事も分るには分るが、北川君の病床には駈けつける。これも分るには分るが、一考を要するところだろうと思うね。アマノジャクでもあるし、理に偏してもいる」
長平の答えはなかった。青木はやや苦笑して、
「フン。よかろう。タヌキかトラか、ただのネズミか知らないが、オレは長さんの正体を見とどけるのがタノシミさ。オレが来年も生きているとしたら、ミレンのせいではなくて、長さんの正体を見とどけたい一心だと思ってくれよ」
明るい部屋
一
放二のやつれ方はひどかった。
長平は知人の医師をともなって診てもらったが、ルミ子の部屋へしりぞいて話をきくと、彼は放二を生かそうとする情熱を起そうとしなかった。
「いますぐ入院というわけにはいきませんよ。うごかすと、死期を早めるだけのことです。三四日手当をしてみて、多少力がついたとき、病院へうつすことはできるかも知れませんが、どっちみち、長い命ではありません」
「どれぐらいの命ですか」
「うまくいって、二三週間」
「百に一ツも、望めませんか」
「百パーセントです。ここまできては、奇蹟は考えられません」
「会ったり、話を交したりしない方がよろしいですね」
「そう。ですが、どっちみち助からないイノチですから、親しい方々が心おきなく話を交しておかれることを止めるべきではないと思いますね」
ルミ子は医師の冷淡な言い方があきたらないらしく、
「十分か十五分ぐらいの診察で、どうしても助からないなんてことが、ハッキリ分るんですか。そんなにハッキリ言いきるほど、自信がおありなんですか。診たて違いということが、よくあるでしょう。百パーセント死ぬなんて、そんな自分勝手な、自分だけ絶対に偉いようなことを仰有って」
ルミ子は自分がとりのぼせているのに気がつくと、自分のノドを手でおさえて、あきらめたように沈黙した。又、ふと、顔をあげて、医師を見つめて、
「先生。奇蹟は、どこにでも、あります。情熱の中にあるのですわ。先生が治してあげようと信じて下されば、奇蹟はあるかも知れないのです」
「そう。ぼくの言いすぎでした。毎日きて、できるだけの手当をつくしますから、安心なさい」
長平一人を相手のつもりで腹蔵ない意見をのべていた医師は、伏兵の爆撃におどろいたが、世なれた態度でルミ子を慰めてやることを忘れなかった。
医師を送りだしてから、長平は放二を見舞って、
「あんまりガンコに、ひとりぎめに諦めちゃアいけないぜ。ノンビリとノンキな気持になるがいい」
放二は童子のようにニコニコして、
「ぼくは、ノンビリと、ノンキな気持なんです。すべてに、満足しています」
「そうか。それに越したことはない。ぼくは東京にいるあいだ、ルミ子の部屋に泊っているから、用があったり、話相手が欲しいときには、よびによこしたまえ」
放二は、又、童子のようにニコニコした。そして、うなずいた。
「先生、ぼくに看護婦をつけて下さるんですッて?」
「そうだよ。なれた者でなくちゃア、寝たきりの病人は扱えないものだよ」
放二はうなずいて、
「それは、ありがたいのです。なれない女の子たちに、メンドウをかけるのは、気がひけていたのです。ですが、宿なしの女の子たちを、この部屋から追いださないで下さい。先生が気をきかせて下さって、あの子たちに他の部屋を世話して下さっても、こまるんです。あの子たちの身上は自由なんです。ここにいるのも、ここを去るのも、あの子たちの自由にまかせて下さい」
二
長平はルミ子の部屋へ泊りこむことになって、よいことをしたと思った。こんなに虚心坦懐に、女にもてなされたり、女を愛したりして、深間の感情というものをまじえずに、淡々とくらせるのが、ありがたい。ルミ子は魔性というものが少しもなくて、そのくせ、生れつきの娼婦というのかも知れなかった。
ルミ子は長平から放二のよろこびそうな新刊書をきいて、それを買ってきて、一日中、放二に読んできかせていた。放二が疲れたりねむったりすると、自分の部屋へ戻ってきて、長平の邪魔にならないように、ねころんで、うたたねしたり、本を読んでいた。
「先生、童話すきですか」
「そう。すきだね」
ルミ子は、どうも困ったという顔をした。
「兄さんも好きなんです。読んでくれッておッしゃるのよ。でもね。読みつづけられなくなってね。時々ね、よむのを止してボンヤリしていることがあるのよ」
「なにを読んだね」
「風の又三郎。兄さんが、それを読んできかせてッて。童話ッて、みんな、あんなに悲しいの」
「そうかも知れない」
「変な悲しさですもの。いらだたしくなるのよ。あれじゃア、助からないわ」
「どんな風に、助からないのかね」
「ほんとに悲しいッてことは、あんなことじゃアないでしょう。私、悲しいときにはね、ウガイをしたり、手を洗ったり、そんなことをして、忘れちゃうのよ。無い時にお金のサイソクされたり、叱られたり、ね。それが悲しいことでしょう。童話と怪談は似ているわ。なんだか、ついて行かれない。いつまでも、からみついてるようで、女々しくッて、イヤなんです」
「子供の時のことを、思いだしたくないことが有るんじゃないのか」
「いゝえ。そうじゃないんです。ウガイをしたり、手を洗ったりして、忘れられないようなことは、私たちの生活にはないのです。童話の中にあるだけなのです」
「なるほど。つまり、余計ものなんだな」
「お金で物を売ったり買ったり、身体を売ったりお金をもらったりでもいいわ。それから、借金したり、お金がなかったり。恋をしたり、しなかったり。私の毎日々々のくらしには、あんな変な悲しいこと、ないんです。童話や怪談は、いけないことだと思うんです。ウソですもの」
「どうも、ぼくには分らないが、パンパンの生活をそッくり書いても、童話になるぜ」
「なるんですか!」
「風の又三郎と同じような童話ができると思うけどね。しかし、君の考えていることが、ぼくには、まだ、分らない。君は、山や川や海の景色をみてキレイだと思わないのか」
「思わないことは、ありません。でも、つまらなくも見えます」
「人間は?」
「人間には善いことと、悪いことがあるでしょう。善いことよりも、悪いことの方が、もっとタクサンあるでしょう。人間は、そうなんです。悪い人間もいます。悪い心もタクラミもあります。童話のように善いことずくめじゃないのです。怪談のように悪いことずくめでもありませんけどね。小説ッて、もっと、人が悪くなくちゃア、いけな
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