いと思うんです。あんなに変に悲しい童話、助からないんです」

       三

「お父さんやお母さんは、いるのかい?」
「ええ。それでパンパンは、おかしい?」
 ルミ子は笑った。いつもながら、あどけない笑顔である。そのせいで、ルミ子の部屋はいつも、明るい。長平は疲れた手を休めて、ルミ子と話を交すのがたのしかった。
「生れた家へ帰りたいと思わないかね」
「思いだすことはあるけど、帰りたいとは思わないわね」
「病気になったり、苦しいことがあってもか?」
「ええ。生れた家は、もう無いことにきめたの。私はね。街の女。街の子よ。今日があるだけよ。昨日も、明日もないわ。今のことしか考えない」
「ホウ。立派な覚悟だ」
「先生は?」
「そう見事には、いかないな。昨日のことも、明日のことも、考えるよ」
「私も、そうよ。でも、それじゃアこまるのよ。パンパンには、ね。昨日も、明日も、あると、こまる」
「なるほど」
「私だって、パンパンでなければ、昨日も明日もある方が都合がいいだろうと思うわ。その方が、自然だものね」
「そうかねえ。今のほかに、昨日も、明日もある方が、自然というものかねえ」
「冷やかしちゃア、ダメだわ。そんな風にいわれると、迷ってしまうわ」
「ほう。何を迷うの?」
「だって、誰だって、自分の今のこと、今考えていること、今の生活、信じたいのですもの。今のこと、後悔する日がくるなんてこと、苦しくッて、とても考えられないわ」
 なんとなく、まぶしそうに、笑う。思い切って切ないことを語っていても、それだけであった。
「いつか後悔する日が来そうな気がするのかい? ヤ。そんなことをきいて、わるかったかい」
「いいえ。ヤだなア。先生は。そんなにクヨクヨしそうに見える?」
「そこが、ぼくにも分らないよ」
「先生は、どうなのよ。後悔が、こわい?」
「後悔は、ムダだと思うよ」
「そうなのよ。ですけどね。私は、こう言えると思うわ。後悔する日なんて、もう、来ッこないの。私のところへは、ね。私は、そう信じることができるんです」
 言葉が、すこし、はずんでいた。彼女としては、精いっぱい力強い言い方である。明るい笑みの中に、瞳があくまで澄みきっていた。
 すさまじい確信であった。はずんだ言葉と、明るい微笑が長平の胸にくいこむ。この少女の心のめざましい安定というものが、正確に長平に移動して、彼の心まで安定させてくれるようだ。
 長平はこの安定の静かなことと美しいのに心を洗われずにはいられなかった。ステバチでもなければ、気負ったところもない。十九の少女が、その毎日の生活を正しく生きて、確実につかみとった安定なのである。そしてミジンも感傷がないのは、この少女の身辺を益々清爽なものにしているのであった。
 ただ一つ、この少女がムリをしていることはと云えば、放二に対する感情であるが、それがムリなく起伏をしずめて自然なものに見えるのは、パンパンという職業からくる特典のせいかも知れない。ルミ子の血が多くの男によって汚れているのは、そうでない場合よりも、長平にはかえって清らかなものに見えたのである。

       四

 長平は上京したが、まったく外出しなかった。ある日、青木が遊びにきて、
「君も乱暴なお方だな。上京して一週間にもなるのに、記代子嬢の病室を見舞わないのは、どういうワケです。君の心境がききたくなって、本日は、私製詰問使というわけさ」
 長平は忘れていたことを理不尽に思いださせる青木の言葉がうとましく思われた。
「君は、そんなことに、どうして、こだわるのだろうね」
「これは、おそれいった。こッちがインネンをつけられることになるとは思わなかったね。上京して一週間にもなるんだから、一度ぐらいは見舞ってやりなさいよ」
「そういうもんかね。上京と云ったって、こゝと病院には距離があるよ。京都から病院までの距離と、こゝから病院までの距離と、距離があるということじゃア、おんなじことじゃないのか。記代子の病室へ行く必要があれば、京都からでかけるさ。上京したから、ついでに用のないところへ行く必要があると、君は考えているのかね」
「益々おそれいりましたね。人生には、ツイデ、ということが、ないんですかい」
 ルミ子が屈託なく笑って、
「ツイデ、ッてことは、たのしいわね」
「ホレ、ごらん。この可愛いいお嬢さんが、証明してくれましたよ。ねえ、可愛いらしいお嬢さん。しかし、ツイデは、たのしいかねえ」
「用たしに行くでしょう。ツイデに、このへん、ぶらついてみましょうと思うわね。たのしいわ」
「ずいぶんジミなお嬢さんだね。そんなのが、たのしいかねえ。ほんとに」
「先生は、腰をあげるのがオックウなんでしょう。私は、そう。腰をあげなきゃならないと思うと、たいがいのことは、その値打も魅力もないように見えてしまうわね」
「意気投合していらせられるか」
 青木は苦笑して、ねころんだ。
「パンパン宿というものは、威儀を正して坐っていられない気分になるものらしいや。御免蒙って、失敬しますぜ。ところで、長さんや。重ねて、おききしますが、記代子さんの病室を見舞う必要はないのですか」
「先方が会いたがってもいなかろうよ」
「なるほど。しかし、なんとか、してあげる必要はないかねえ」
「君自身が何かの必要を痛感しているらしいな。ぼくに何をやらせようというのかね」
「君自身には、ないのか」
「ない。記代子がぼくを必要とするまでは。どうも、君は、妙にひねくれて、考えているね」
「そうかい」
 青木は素直に考えこんだ。理窟は、たしかに、そうでもある。しかし、これでは、隣人というものが助からない。
「なア。長さんや。記代子さんの放浪、恋愛、愛人の裏切り、輪姦、脱走、病気。よくもまア、これだけの困ったことを、たった一人で引きうけたものさ。隣人は不幸を分ちあうものさ。君は彼女の死んだ父母に代るべき最も近い肉親ですよ。最大の隣人ですよ。君が何かをしてやらなくて、誰が彼女の再生の支えとなる者があるのかね。え?」
 青木は改まって、起き上らずにいられなかったが、それが一そう長平に不興を与えたようであった。
「記代子にまかしておきたまえ」
 長平はソッポをむいで、つめたく答えた。

       五

 青木は長平の顔を見るのも不快な気がした。いつもながら、思いあがった冷めたさである。
 理窟を云えばキリがない。どんな非行も、理窟で筋を立てることはできるものだ。
 やりきれないのは、長平という男の独善的な暮しぶりだ。行い澄ました偽善者の方が、まだ、どれぐらい可愛いいか分らない。姪の病室を見舞いもしないで、パンパン宿でノウノウとしている悪どさ。その暮しぶりの独善的な構図が、あくまで逆説的だから、鼻もちならぬ毒気に当てられて、やりきれなくなってしまう。
 たかが小娘のパンパンを心の友であるかのように、一ぱし深処に徹して契りを結んでいるかのような、平静や落付きも、やりきれない。思いあがっている、という一語に全てがつきている。
 生活に不安のない人間が、彼によりすがる人々を突き放して勝手に安定するぐらい、容易なことはないのである。要するに、利己主義という一番平易な一語につきる。
 青木はつい皮肉の一つも言わずにはいられなかった。
「貧乏人のヒガミというものは怖しいやね。ねえ、長さんや。貧乏人はあなたのことをこう言うよ。大庭長平という人物は高利貸しと同じ性質の利己主義者にすぎない、とね。誰から何をしてもらう必要のない人間が、誰に何もしてやらないぐらい簡単なことはないやね。それを一ぱし尤もらしく筋を立ててみせる学の心得があるだけ、隣人の心を傷つけ、害毒を流す悪者である、とね。単純明快に、あなたは悪者であるですよ」
「そう。悪者というのかも知れないわね」
 青木の言葉をひきとって、感懐をもらしたのはルミ子であった。青木の皮肉な心をひきつがずに、言葉だけを平静にひきついだので、青木は虚をつかれて、ルミ子を見つめた。
「そう。彼は悪者以外の何者でもありませんよ。しかし、ルミちゃんや。悪者の定義を甘やかしちゃいけませんぜ。何故に彼は悪者であるですか」
「利己主義ということは悪者ッてことじゃないでしょう」
「ア。そうですか」
「隣人に冷めたいことも、悪者ッてことにならないわ」
「そのほかにも悪者がいるのかねえ」
「私はね。沙漠へ棄てられた夢をみたことがあるわ。誰が棄てたか知らないうちに、誰かに棄てられていたのよ。みると、お母さんが歩いて行くのよ。お母さん、助けてッて、叫んで追ッかけようとしても、足が砂にうずもれて進むことができないうちに、お母さんがズンズン歩いて行ってしまうの。とりつく島もないわね。でもね。ズンズン行ってしまうお母さんが悪者ッてことはないわ。誰も悪くはないのね。そんな夢を見ることが、悪いことなのよ」
「夢が悪者なのかい」
「私はね。大庭先生がね。人に夢を与えるようなところがあると思うのよ。だから、悪い人だと思うのよ」
 ルミ子は真顔でそう言ってしまうと、ふき出して、大そう、こまりながら、
「先生、ごめんね。私はね。人に夢を与えることが、悪いことだと思うんです。怖しいのです。私は人に夢を与えるような気持なんかなかったんですけど、何かしら夢をみて死んだ男の人があったんです。でも私は悪いことをしたとは思いませんでした。したツモリがないのですもの。先生も、そうかも知れません。でも、それは、きッと、悪い事かも知れません」
 ルミ子は睡たそうに、目をふせた。

       六

 せつ子のような多忙な女は、かえってヒマがあるのである。時間を巧みに利用するからであった。
 青木と長平がとり交した「ツイデ」に関する論争などは、彼女には論議の因にならない。彼女自身は行えば足りて、他人のことはどうでもよかったからである。
 そのせつ子も、放二の病床を訪ねることと、そして長平に会うことには、気が滅入った。パンパン宿にすみついて、一向に外へも出たがらない長平がバカバカしいからであった。
 せつ子は青木から長平を訪ねてきての報告をきいて、
「そのパンパンは可愛いい子?」
 青木はモッタイをつけて、
「左様。戦後のプロスチチュートは、美貌と同時に学があるね。未熟な芸をひけらかして、古風な型にはまった芸者などにくらべると、身に即した独自な見解をもっていて、甚だイキのよい生物ですな。その中で特に傑出しているのがルミ子というパンパンで、美貌に於ても、独自の見解に於ても、各界の一流の女傑に比して遜色ないほど、一家をなしていらせられるです。あの子の十九という年齢について考えると、他の女傑は、大そうムダに時間を費したものだなと考えさせるところがあるね。女傑は貞操をすてることによって、頭脳的に成育する時間を甚だしく短縮すると見ましたが、どうですかな?」
 せつ子は顔をそむけて、青木を退散させた。
 彼女は特に長平が好きだというワケではない。長平とてもそうである。長いこと会わずにいても、なんということもない。しかし、会えば愉しい時間をすごすことができて、イヤな気分というものに患わされることが殆どなかった。つまり気質的になんとなくウマが合っていて、会うたびにあたたかい友情がよみがえるが、離れてしまうと思いださずにすむのであった。
 せつ子は十九の小娘を嫉妬するイワレをもたなかったが、まったくウンザリした。親友の行跡が、あんまり下らなくて、バカバカしいからである。マジメな顔をして、そんなところへ訪問できるものではない。
 今にこッちへ出向くだろうと思っていたが、青木のつたえるところによると、パンパン宿に居るということと、東京に居るということには、京都と東京と同じだけの距離があって、パンパン宿から東京の一地点へ出向くことは、特に京都から出向くことと同じ意味合いになるのだそうである。パンパン宿から一歩もでずに、そのまま京都へひきあげてしまいそうであったが、長平はたしかにそれをやりかねない性癖であった。
 せつ子はバカバカしくてやりきれなかったが、長平を訪問することにして、穂積
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