酔っぱらった男たちの一隊が戻ってきた。彼らは喚声をあげて記代子のところへ殺到して、同じことを、くりかえした。
 そういうことが四日つづいた。記代子は目がくらみ、頭が霞んでいた。夜も昼もなかった。彼らがお握りをおいて行くので、そのときが夜でないことが察しられるだけであった。どうする気力も失って、ただボンヤリしていたが、腹が痛んできたので、便所へ行かせてもらった。便所の往復には、いつも、壁に手を当てて、身体を支えなければならなかったが、その日は腹が痛むので、時々壁にもたれて休んだ。便所から戻ると、のめるように部屋へ倒れこんでしまった。
 一人の男が水と薬をもってきて、
「この妙薬をのんでみろ。いっぺんに治らアな」
 と置いていった。記代子はそれをのまなかったが、腹痛は自然におさまってきた。
 記代子は痛みがとまると、ふと気がついた。薬をおいて行った男は心ばり棒をかけずに立ち去ったのである。その男はモヒ入りの催眠薬を与えたので、安心して心ばり棒をかけなかったのである。
 日がくれて、まもない時刻であった。この時刻は、この家で最も人の少い時間であった。戸に手を当てて静かに少しひいてみると、たしかに心ばり棒はかかっていなかった。
 記代子は戸をあけた。庭へ降りた。花壇を走った。塀をのりこえた。その大半が夢中であった。
 夜中に、青木の宿へ辿りついた。

       七

 記代子は青木の部屋へたどりつくと、高熱を発して寝こんでしまった。何一つ語り合う間もなかった。
 夜っぴて看病して、翌朝は影のように生色を失って、社へかけつけると、せつ子に会って、報告した。
「二目と見られないような有様ですよ。よくも怪しまれずに、ぼくのところまで辿りつけたもんだなア。足は素足で、血をふいているし、顔も、全身もむくんで、悪臭を放つのさ。ぼくは一目見たときに、実に「なれの果て」ということをグッと感じて、目がくらみそうな切なさでしたよ」
「なれの果てだから、どうしたって云うの」
 せつ子は冷めたく、あびせた。
「記代子さんという娘の愛情が、あなたのところへ戻ってきたんじゃないのよ。一人の娘の悲劇が、あなたから出て、あなたへ戻っていったのよ。なれの果てとは何ですか」
 怒りを叩きつけると、せつ子は風のように、とびだしていった。彼女はただちに穂積をつれて、記代子を病院へ移した。
 せつ子は秘密探偵にたのんで、エンゼル家を見張らせていた。記代子の外出を待ちぶせて拉《らっ》し去るつもりであったが、十日の余も日数をへて、なんの効もなかったのである。
 放二はまだ休んでいた。
「北川君に来てもらって、つききって貰いましょうかね」
 穂積がこう申しでたが、
「ダメですよ。娘のあられもない姿を若い男に見せるのは、もってのほかよ。あなたのような仙人は、そろそろ男の口にはいらないから、これが適材適所なのよ」
「ぼくの方が適材適所さ」
 こう呟く声にふりむくと、いつのまに来たのか、青木がドアの横手の壁にもたれて、パイプをくゆらしていた。
「風と共にきたる」
 青木はせつ子のおどろきに応じるように、皮肉なカイギャクを弄した。
「ねえ、社長さん。あなたは、こんなことを思わないかね。ここに一人の人間がいて、彼のツラの皮をひンむこうと、ふんづけようと、すべてこれ蛙の顔に小便さ。イケ、シャア、シャアですよ。彼のために病院の入口にバリケードをつくっても、彼は忍びこみますよ。しかし、いつも彼がこうだときめるわけにはいかないね。彼は本来は怠け者ですよ。だが、しかし、ひとたび意を決するや、常にかくの如しです。この一念は、雑念がこもって妖気がむらたっていても、仙人よりも、むしろ純粋ですよ。適材適所とは、かかる一念を指名して一任すべきを最上とすると思いますが、いかが?」
 せつ子は色をなした。
「あなたの一念が、どんな効を奏したことがありましたか。記代子さんの行方を突きとめることもできなかったじゃないの。病院のバリケードを破るぐらいは、誰でもできます。放二さんは人の隙をねらうような猾《ずる》いことはできませんが、記代子さんの行方を突きとめているのです」
「そして、助けだすことができなかっただけでしょう」
 青木は笑った。
「彼が行方をつきとめても、助けださなければ、ムダに於て、同じことさ。あなたは、希望的観測によって正当なものを見失っているのだな。ぼくは今こそ断言します。彼女はなれの果てとなりはてたから、今や彼女を愛しうるものは、ぼくのほかにありません。ぼくは彼女と結婚します」

       八

 青木はその晩京都へたった。
 その汽車の中で、青木はいろいろのことを考えた。
「とにかく、オレの一生で、今日がいちばん傑作のようだ」
 自分という人間のバカさ加減がよく分ったが、こんなにワケのわからない存在だということを、五十年ちかいあいだ身にしみて考えたことはなかった。
 青木は親しみを表すかわりに挑戦的な表し方をするヒネクレた性癖のおかげで、彼が親しみをもつ人に限って、あべこべに彼をうとんじるという妙な喜劇に一生なやまされてきた。
 相手が自分にウンザリしてしまう理由が、まことにモットモ千万であると納得することができる。
 そして、そういう事柄の中に、いろいろのことがまぎれて、姿がかき消されている。たとえば、梶せつ子という親友は、現在は自分の社長である。そして、長平に対する義理であるか、または気まぐれであるかは知らないが、相当のサラリーをくれて、仕事らしい仕事もさせずに遊ばせておく。いや、遊ばせておくということの中に、彼女、イヤ、親友の意地のわるさがあるのかも知れない。つまり、無用の存在だということを思い知らせるという意地のわるさである。
 けれども、時間的にその前のことを考えると、実に、彼女親友は、彼の恋人であったのである。否、彼の金銭に従属するところの情婦的存在であったのである。そして、彼は彼女親友に、そのとき八十万円ほどかすめとられている。
 現在彼女親友が社長であるところの出版社にしても、元はといえば、彼即ち自分がかすめとられた八十万円を資金の一部としてやりはじめる計画であったが、他に雄大なる後援者が現れて、かれこれするうちに、彼即ち自分は一介の無用な使用人に身を沈め、彼女親友は押しも押されもしない大社長になっていた。
 しかし、すべてそれらの曰く因縁はあたかも地上から姿を没し去ったかのようである。彼は今でも彼女に対して親友の愛情をもつが故に、あたかも挑戦するかのような妙な表現をしてしまう。それに対して彼女が彼に示すものは親友の情ではなくて、お前は無用の存在だという意地のわるさなのである。
 ところが奇怪なことには、彼は彼女に挑戦し、彼女は彼に意地わるをもって応じるという関係のみが現存するが、曰く因縁というものは、彼自身の意識中においてすらも、ほとんど姿を没し、消えてなくなっているではないか。
 まア、しかし、そういうことは、どうでもかまわない。
 妙なのは、記代子と結婚するという断々乎たる決心なのである。どこにも、そんな決心などは、ありやしない。何かしら、ちょッとでも真実らしいものがあるとすれば、彼は記代子がころがりこんだとき、あまりの哀れさにト胸をつかれた。それだけである。
 彼は夜明けまで熱心に介抱したが、彼は介抱しながらも、この女はバカな女だ、バカな女というものを端的に戯画化したのがこの女のこの現実の姿だ、というようなことを考えていた。
「よろし。京都へ行って、長平どんにたのんで正式に女房にもらってやろう」
 そう考えたつもりで、汽車にとびのったが、今や、どう考えても、そのとき、そう決心したと信じることは不可能だ。オレはその決心を口実にして、実は自分の気付かない目的のために京都へ行くつもりだろうか、と考えた。ワケのわからないバカな話があるものだ。しかし、現にそうではないか。

       九

 問題の本尊は、記代子ではなくて、別れた女房にあるのかも知れないな、と青木は考えた。
 長平に会いたいのは、礼子のことであるかも知れない。礼子は長平のふところへとびこむつもりで彼をすてたが、結局、長平は彼女を相手にしなかったし、今は礼子もあきらめたようである。
 しかし、あきらめるッて、何をあきらめるツモリだろう。彼にもあきらめたことは、いろいろあった。青木は立侯補をあきらめたし、大実業家になることもあきらめた。
 今でも青木があきらめないものがあるとすれば、あるいは礼子のことであるかも知れない。けれども礼子は、長平が彼女をてんで相手にしなかったので、それをそッくり昔の亭主に返礼して、ちかごろでは、益々冷めたく、青木を相手にしなくなっている。
 そのウップンを長平のところへ持っていこうという魂胆ではないけれども、彼の心にケイレンが起きたとすると、特効薬は長平のところへなんとなく泣きに行きたくなることである。
 しかし、彼が京都行きの汽車にのりこんだのは、そのためだというわけではない。なにがなんだか分りやしない。めいめいの人間には、一生の誤差がつもりつもってゼンマイが狂い、一時にケイレンを起すような時があって、それかも知れないと青木は思った。
「つまりケイレンだな。病原不明のゼンソクみたいな、精神的アレルギー疾患なのさ」
 人間は――すくなくとも彼自身は、年をとると、益々迷いが深くなるし、バカになるようだと青木は思わざるを得なかった。
 彼は京都の長平の閑居へ早朝に辿りつくと、まるでわが家のように落ちつきはらって、
「なア。長平さんや。こうして古都の静かな侘び住居で、あんたの顔を見ると、なつかしいなア。余らも老いたり、と思うよ。もっとも、あんたは、老いて益々若い気持かも知れないがね」
 自ら小女にビールを命じ、自分で栓をぬき、二つのコップについで、グッと一息にのみほした。
「ヤア、うまい。これが、人生だ。なア、長さん。人生は、たった、これだけのもんだよ。オレが、三四ヶ月前に東京でようやく君をとッつかまえた時にさ、別れぎわに、こう言ったのを覚えているかい。そのうち、一度、京都へ訪ねて行くぜ。なんのためだかオレも知らないけどさ、そのときは、門前払いはカンベンしておくれよな、と言ったのさ。人間は自ら予言するものさ。いや、結局、自分の予感だけの人生しか生きることができないのだな。しかし、そんなことは、どうだっていゝんだ。こうやって、ビールをのむだろう。すると、ほかのことなんか、実にとるにも足らないことになってしまうのさ。なア、キミ。ぼくは、いま、一つのことを悟ったのさ。曰く、老境ですよ。老いて、益々迷い深し。しかし、老境は老境ですよ」
 青木はしばらくビールをたのしんでから、ようやく記代子のことを思いだして、ひどい姿でどこからか彼のもとへ逃がれてきて、目下入院中だということを語った。
「ゆうべ、おそく、東京から電話で、そのことはきいていたよ」
 まだ朝食前の長平もビールをのみはじめた。
「どんな人生だって、同じことだろうよ。聖処女が、とたんに淫売になったところで、なんでもありゃしない。めいめいが自分の一生をかけがえのないものだと分ればタクサン。記代子がそんな風になったことと、女学校へ入学することと、差の違った出来事だと考えることができないよ。もう、そんな話は、よそうじゃないか」

       十

 青木は一ねむりして目ざめると、浴衣がけで京都の街々を散歩した。しかし彼には、街や人よりも、山や川が胸にしみてくるのであった。
 業平《なりひら》や小町や物語の光君という人などが花やかな貴族生活をくりのべていたころでも、古都は明るいものではなかった。賀茂の河原は疫病で死んだ人の屍体でうずまり、屍臭フンプンとして人の通る姿もなく、烏の群だけが我がもの顔に舞いくるっていたものだ。
 関ヶ原の畑をほると、今でも戦死者の骨がでゝくるそうだが、賀茂の河原からは、何も出てきやしないだろう。いっぺん洪水が起れば、すべては海へ流れて、河原は美しい自然の姿にかえってしまう。
 この古都では、山と川が、昔
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