い。
 しかし、そのアベコベも真実であることを放二は知っていた。人間は、お金で買えるものなのだ。身体も、心も。特殊な例をあげる必要はない。早いところ、勤め人の生態がそうではないか。
 だいたい、人の心を買うものが、こっちの誠意や赤心だという考えがまちがっている。誠意や赤心というアイマイなものは、売買の規準にはならないものだ。一歩まちがえば、神がかり的な軍人たちや、教祖と信徒のようなものになってしまうし、まちがわなくとも、それがギリギリの正体なのかも知れないのである。
 むしろ、精神的なものも、金で買うという方法が、マギレがなくて、元々チグハグな人生では、ともかく最も正常な方法なのかも知れない。人の心というものがトコトンまで買いきれないのは分りきったことであるが、一応物質に換算して、ある限界までは金銭で売買するのが、むしろ健全だ。それ以外により明確な手がないからだ。
 しかし、放二は、十万円でエンゼル夫妻の信頼を買うつもりではなかった。彼はその考え方を捨てたのである。何も買ってはいけない。彼はただ二人のために誠意をつくそう、と自分に言いきかせていたのであった。
 そのつもりで、彼らに渡す十万円をフトコロにでかけてきたが、フトコロに金があるうちは、まだ、いろいろなことを考える。その金で転地をすすめてくれたせつ子の気持も気にかかるし、せつ子の厚意が十万円にこもっていると思えば、みすみす詐取とわかっているエンゼルの軽薄な気持を比較して、もどかしさを感ぜずにもいられなかった。
 エンゼルの人を小馬鹿にしたような詐欺的な申出に応じることが、正しいことだろうか、と気にかかりもする。
 しかし、真剣な申出だから応じるという区別の立て方にはウソがある。第一、真剣と、真剣でないものとに、本当に区別を知る人があるだろうか。いったい、真剣とは何だ。そんなものに、どこに特別の値打があるのか。今日は真剣でも、明日は真剣ではなくなるかも知れない。今日は軽薄なエンゼルでも、明日はそうでなくなるかも知れない。ウソと云えば人の心は全部がウソ。どんなにバカ正直の大マジメな心でも、ウソの裏ヅケはちゃんと在るものだ。
 エンゼルの申出が軽薄だから。みすみす騙されるだけだから。そういう言いがかりをつけて金を惜しむのは不当である。だまされることは問題ではない。信念の心棒になるのは、自分の心だけである。そして、二人のために誠意をつくすということを実行すればよろしいのである。
 十万円という金は、たとえ騙して取った金でも、十万円である。エンゼルは、それを十万円とし使うであろう。そして、そんなことは、こっちの気に病むことではないのである。

       十五

 放二は十万円をエンゼルに渡して、にわかにサッパリした気持になったので、自分の心も、たよりなく、軽薄すぎる、と思わずにいられなかった。執念のあるべきものには、もっと執念のある方が本当のような気がしたからであった。
 人間は金銭に対して、当然執念があるべきもののようである。自分が金銭に特に淡白な人間だとも思わないが、この十万円について案外アッサリしているのは、金の値打を知らないせいではないかと思った。
 十万円という意外な大金を自分のものとしてポケットに収めたのは今度がはじめてのことだ。その半分の金を貰ったこともない。
 生活が体をなしていれば、何かと特に欲しいものもあるかも知れないが、無一物、万事にボロだらけの放二の生活には、何もかも欠けているから、特に必要なものがなかった。無ければ無いで、まにあうような生活環境がちゃんと組み上っているものだ。全部を変える以外には、それに多少つけ加えるべきものがないように見えるほどである。
 十万円というまとまった金をもらってみても、放二はそれほど嬉しいとも思わなかったが、思わないわけである。身にしみて必要な理由がなかったからである。一つだけあるとすれば、せつ子がすすめてくれたように、身体を丈夫にすることであるが、それに対しても情熱が欠けていた。たッて、という情熱が、起らなかった。ストレプトマイシンも買える。入院して整形手術もできそうだ。転地して、元気を恢復して戻ってくることも、不可能ではないかも知れない。しかし、そうまでするハリアイが、どうしても起らないのであった。
 十万円に淡白なのは、生命の蔑視から来ているのかも知れないが、それもミジメな話である。誰も好んで己れの生命を蔑視する筈はないのである。外部的な何かが、それはいろいろのからみあった何かであるが、それがアキラメを与えているのであろう。
「お前、健康になりたいと思うか」
 こう自ら問うてみる。いろいろの考えのあとで、彼はこう答えを出した。
「このまま。そして、それから、なるがままに」
 病気ということは一応忘れて、他のことに目的をおき、そして病気はなるがままにまかせようと結論はだしていた。深く考えれば、自分のことは何も分らないばかりである。
「ヤ。これは、これは」
 エンゼルは大そう恐縮そうに十万円を受取った。わざと一枚ずつバカ丁寧に算えて、
「たしかに拝借いたしました」
 金を手にしているエンゼルは銀行員のように律儀な物腰に見えた。
 すると記代子は、放二から借金するエンゼルを見るのがつらいらしく、
「北川さん。あなた、もう、帰って下さい。私たちには、いろいろ用が多いの。毎日毎日が忙しいのよ。あなたと、ゆっくりお話しているヒマなんてないのよ。今日だって、ムリして、お待ちしてあげたんです」
 放二は立って、
「お邪魔いたしました。では、失礼いたします」
「ヤ。そうですか」
 エンゼルはひきとめなかった。記代子は一そう威丈高になって、
「北川さん。私はもうあなたにはお目にかかりません。私に挨拶したいなんて、変なこと仰有らないで。そして、もう、二度とここへいらッしゃらない方がいいわ」
 睨みつけて、さッさと立ち去った。


     三方損


       一

 エンゼルは京都の長平を訪問した。
 せつ子からも、放二からも、まだ報告がなかったので、記代子のその後のことが長平には分らなかった。せつ子が荒っぽい処置をしたので、エンゼルが文句を言いにきたのか、などと考えた。エンゼルという男には興味をもっていたので、書斎へ通した。
「たいへん閑静なお住いですな。京都には、こんな住宅が多いようで、土地風というのでしょうな。東京でこの閑静をつくるには、庭を五十倍にしなければなりません。猫額大にして山中の如し」
 ニコニコしている顔に厭味がない。ちょッと古風なことを言ってみせる芸当など、芸界の生意気ざかりのアンチャンが、こうしたものである。
「君は立派な屋敷をもっているそうだが、屋敷もちは京見物の心得が違うようだね。人の住居が気になるかね」
「いろいろと見聞をひろめ、後日の参考に致そうと思っております。人間、焼跡のバラックでは、恒心がそなわりません。ぼくのバラックでは、庭が花園になっていますが、これは職業上の畑でして、家と職業は分離しなければ、家の落付きはありません。隠居家ということを申しますが、隠居家こそは家の建築の正常な在り方である、これがぼくの意見なのです。なぜかと申しますと、万人が家庭においては隠居である。彼は年若く、生き生きと、かつ多忙に働くが故に、家庭においては特に隠居でありたいと思う。これがぼくの意見です。そして、今後家をつくる時の理想なんです。京都の山手の住宅は、いかにも侘び住居、隠居家の趣きを極度に研究、洗練したもののように拝見いたしました」
「建築に凝ると、調度、書画などに凝るのが自然だが、その方はどうです」
 エンゼルはニコニコと考えこんだ。たしかに彼は家のことには大そう興味をもっている。こんな家をたててみたいと考えて、自然に建物に目がひかれる。調度や書画のことも、自然考えているけれども、本当に買ってみたことがないせいか、好き嫌いまで、まだ漠然としている。世間では、こんな書画が値がいいそうだが、自分の好きというものが、まだ分らないのである。
 なるほど商売人はうまいことを言う。家に凝ると、書画にこる。なるほど、うまい。こッちの気持、人間の気持をピタリと言い当てるのは、さすがに商売人である。こう感服したから、自分の至らないのをごまかして、彼はニコニコと考えてみせた。
「失礼ですが、こちらに御秘蔵の書画を、拝見させていただけましょうか」
「ナニ、君の方が風流人さ。この住居は借家。特に書画と名のつくものは、何一つ持たないのさ。君はどんなものが、お好きです」
「ぼくはこの、まだ若僧で、観賞力もないものですから、閑静な隠居家がすきですが、又、華やかな色彩、調度が好きなんです。サビとか、渋いということが分らぬわけではありませんが、どうしても華やかなものに気をひかれる。それで調和いたしません。この矛盾、これは悪いことでしょうか」
「好き好きさ。それだけ自分の好きなものが分っていれば結構さ。好きなようにやるのが道楽だろう。で、君の御用件は、なんですか」
 この男が何の用できたのだろうと思うと、なんとなく早く知りたくて仕方がなかった。
 エンゼルは困ったという笑いを見せて、
「どうも、そちらから、きりだして下さると思っていましたが、御催促とは、どうも、ちょッと、勝手ちがいで……」

       二

 エンゼルはゆっくり身構えを立てなおした。彼は大人を買いかぶってもいなかったし、世間的に知名な大人を特別な大人だとも思っていなかった。中隊長だの部隊長だのというものが、その階級によって与えられていた威厳を取り去れば、ダラシのないウスノロにすぎないじゃないか。世間というものが個人に与える特別の威厳というものを、眼中に入れるな、ということを、戦地の経験によって身につけていたのである。対等以上の存在を考える必要はないのである。
「女の心理というものは、妙なものですな。女というものはツマラヌ人間である、ぼくがこう判断したのがマチガイかどうか、ひとつ聴いていただきたいものですよ。しかし、ぼくも、オッチョコチョイには相違ありません。ぼくが記代子を好きになったのは、犬庭さんの姪であるということ、これが重大なる理由なんですなア。ダンサーでも女給でもパンスケでもない。ぼくらの身辺にはちょッと見かけない女性で、有名な人の姪だというので、大そう熱ッぽい思いになる。ぼくらは、そんなもんですよ。で、まア、愛した、惚れた、といえば、それにマチガイはないのです。一週間か十日のことですがね」
 エンゼルは深い目を、無感動に、ジッと長平の顔を見つめていた。
 エンゼルが身に現しているものは、対等ということの明確な表示である。年齢の差も、知名人という架空な尊厳も、眼中にいれていない。お前の持てるだけの力量と、オレの力量と、掛値なしの裸でテンビンにかゝってみようじゃないか。オレの重さを対等に受けとめられたら、うけとめてみるがいいや。そう語っている。別に長平にそれを知らせようとしているわけではないが、闘志一本に心をかためたから、彼の構えがそれを表示しているだけであった。
 エンゼルは長平の顔から、無感動な視線を瞬時も放さなかった。
「今では記代子が好きではないのです。なんしろ、熱ッぽい思いになった元はといえば、イカモノ食い……これもイカモノ食いの一つですな。本人よりも、本人の環境に惚れたんですから。ながく、惚れる筈がありませんや。惚れたモトがそうですから、鼻についたとなると、これは、ひどいものですなア。日増しに熱がさめる。そんなもんじゃありませんぜ。一時間、いや、一分、一秒ごとでさア。自分ながら、興ざめていくのが、怖しいぐらい。すさまじいものです。こッちは気持がふさがって、食事もまずくなる、記代子を一目見るたびに、アア、ヤだなア、砂をかむような気持。田宮伊右衛門の心境、アア、ムリもないとしみじみ思ったものですなア」
 長平ははじめのうちは、エンゼルの視線をはずして、ソッポをむいて、軽い気持できいていたが、だんだんそんな風にしていられなくなった。嫌いになった女が
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