は錦ヶ浦の茶店で休んだ。断崖の柵にそうて、若い人たちがむれていた。空も、海も、あかるい。
「あそこで、ダイヴしたのかな」
 しかし、そう考えたり、それを突きとめるために来たわけではなかった。彼は目当てがないのだ。ただ、感傷旅行をたのしんでいるのであった。
 熱海の道々に記代子の匂いがしみているような気がする。そう考えてもいいのだ。なんとなく、センチな気分を追って、漫然と感傷的な旅にひたりたかったのだ。彼の身をとりまいて感じられる見えない敵意の数々から逃げだしたくもあった。
「ここ一週間ぐらいのうちに、誰か投身した人がありましたか」
 彼は茶店の人にきいた。
「投身は下火になりました。今は、アドルムですね」
「なるほど。めったに投身はないのですか」
「いゝえ。下火といっても、かなり、あるんですよ。三四日前にも泳ぎの達者な学生がとびこんで、助かりましたね」
 茶店の前に十名ぐらいの若い男女の団体がむれていた。
「誰か、とびこむ勇士はいないか」
「よし」
 小柄な男が声に応じて群から離れた。彼は肩のリュックを下した。
「諸君。サヨナラ」
 彼は左手をあげて挨拶した。にわかに顔がひきしまって真剣になった。彼は一散に走りだした。
 残された団体は、わけのわからぬどよめきをたてた。断崖の近くで、男は野球のスライディングをやった。そして、スレスレのところで止った。団体は拍手した。
 青木は思わず立ち上って首をのばしていたが、顔は蒼白になっていた。メマイで、クラクラした。
「ひどいイタズラをしやがる」
 しかし、すばらしくキレイな空が目にしみた。

       四

 熱海から戻ってみると、記代子の行方は依然わからなかった。
 もう生きている見込みはない、と青木は思った。生きているなら、ハガキぐらいはくれるだろうと思われた。失踪の日から一週間すぎて、次の金曜日になっていた。
 青木はせつ子によびつけられて、まるで彼が記代子を隠して、ひそかに逢っているかのような不快な疑惑を露骨に浴せかけられた。
 青木は苦笑して否定したが、怒らなかった。そう疑られても仕方がないと思っていたからである。
「しかし、そこまで疑る人の本性というものは、残忍無慙、血も涙も綺麗サッパリないんだなア。見事ですよ」
 青木は皮肉ったが、せつ子は蠅がとまったほども気にとめなかった。
 彼女が耳目をこらしているのは、青木の言葉が真実かどうか、それを見分けるためだけである。
「三日間、どこにいたのですか」
「第一日目は東京に、二日目と三日目は熱海に。そして三日目の夜、つまり昨夜ね。哀れにも悄然と東京へ戻ってきましたよ」
「誰と、ですか」
「二人です。ぼくの影と。ねえ、あなた。影は悲しく生きていますよ。広島のなんとか銀行の石段をごらんなさい。あれは誰の影でもない私の影ですよ。あらゆる悲しい人間の影なんだな。ぼくは原子バクダンを祝福するですよ。なぜなら、も一人の自分を見ることができたから。悲しめる人は、広島で、ありのままの自分を見ることができるですよ。ロダンだって、あんな切ない像を創りやしなかった……」
「熱海の旅館は?」
「実に、見事ですよ、あなたは」
 と、青木はくさりきって、
「そんなことまで一々きく品性もあれば、答える必要をもたない品性もあるですよ。ねえ、あなた。あなたという人は、女ながらも、仕事師としては偉い人です。しかし、あなたの品性は、失礼ながら、戦国時代ですな。人をギロチンにかけるか、あなたがギロチンにかかるか、たぶん、二つながら、あなたのものだ」
 話の途中に、せつ子はベルをおして、秘書をよんだ。
「アレ、とどいてますか。タキシードは?」
「きております」
「持ってきて下さい」
 秘書はカサばった包みをぶらさげてきた。中から、タキシード、シルクハット、靴、その他付属品、ステッキに白い手袋まで一揃い現れた。
「あなた、きてごらんなさい」
 せつ子は青木に命じた。
「なにごとですか。これは?」
「社員は連日宣伝に総動員ですよ。あなたのように、休んで遊んでいる人はおりません。あなたは、明日から三日間、この服装で、都内の盛り場の辻々でビラをくばるのです。ヒゲのある中年紳士は、あなただけですから。デコレーションを施したトラックに、蓄音機と拡声機をつみこんで、お供させます。あなたは、演説がお上手でしたね。立候補なさるのですものね」
 青木は泣きそうな顔をしたが、
「ええ。演説はね。うまいもんですわ。なんなら、シャンソンぐらい、おまけに、唄ってあげまさアね。タキシードも似合うでしょうよ。着てみなくッても分りまさア。紳士はなんでも似合うにきまっているのだから」
 サヨナラも言わないで、立ち去った。

       五

 青木は、たそがれの街を歩いていたが、ふと、キッピイを思いだした。記代子と二度ほど踊りに行ったことがあった。
 尖った顔が、出来の悪い観音様に似て、南洋の娘のような甘ったるい腰つきをしている。なんとなく中年男をそそりたてる杏のような娘である。
「フン。杏娘に拝顔しようや」
 ほかに行き場がなかった。どこにも、親しいものがない。多少、つきあってくれそうなのは、ルミ子ぐらいのものだ。そこは時間が早すぎた。
 目的がきまると、やるせない気持も落付いてくれる。彼は新宿のマーケットで安焼酎をのんだ。一パイ三十円。三杯以上は命の方が、という説もあるから、ギリギリ三杯できりあげる。
 杏娘はあんまり親切じゃないようだ。人ヅキのわるい娘である。しかし、記代子の友だちではあるから、赤の他人よりは身をいれて、失踪の話をきいてくれるだろう。それだけでよかった。
「アクビをかみ殺しているような顔さえしなきゃアたくさんなのさ」
 杏娘の甘ったるい腰をだいて、踊りながら喋りまくっているうちは、太平楽というものである。
 しかし、杏娘はホールにいなかった。一曲ごとにダンサーをかえてキッピイの居場所をきくうちに、十人目ぐらいで突きとめた。
 こんなちょッとの困難に突き当ると、青木の勇気はわき立つのである。キッピイに会ったところで、どうせ、たいしたこともない。むしろ居場所を突きとめるという事業に熱中する方が、気持がまぎれるというものだ。
 踊るうちに、酔いが沸騰していた。
「ここだな。ヤ。こんばんは。お嬢さん」
 めざす店の女給にからみつかれて、青木はキゲンよく挨拶した。
「キッピイさん、いるかい?」
 女は返事をしなかったが、その顔色で居ることを見てとると、それで青木は充分であった。カンの閃きに身をひるがえして応じる時が、彼の人生で最も順調な時間なのである。わずかに一分足らずであるが。彼はそれを心得ていた。わが人生の最良の一分間。
「ヤ。ドッコイショ」
 彼はイスに腰を下して、たちまち彼をとりまいた女たちを一人一人ギンミした。キッピイはいなかった。
「コンバンハ。麗人ぞろいだなア。ビールをいただきましょう。ときに、キッピイさんをよんで下さい。陰ながらお慕い申上げているオトッチャンが、一夜の憐れみを乞いにあがったとお伝えして、ね。イノチぐらい捧げますと、ね。ねては夢、さめてはうつつさ。わかっていただけるだろうね。この気持は。年のことは、言いなさんな」
 他の女の陰から、キッピイがヌッと現れた。彼女は青木を睨みつけた。
「ヤ。キッピイさん。待ってました。そうでしょうとも。分ってましたよ。あんたが笑顔じゃ迎えてくれないだろうということはね」
 キッピイは立ったままだった。
「まア、かけなさいよ。はるばるお慕いして訪ねてきた男を、ジャケンに扱うもんじゃありませんよ。な。笑ってみせてくれよ。一秒でもいいや。ぼくを忘れたかな。大庭記代子嬢のカバン持ちさ。覚えているだろうね」
 キッピイはイスにかけて頬杖をついて、ジロジロ青木を見つめた。
「どうして笑ってみせなきゃいけないのさ」
「難問だね」
 青木はキッピイを観察したが、酔っているようでもなかった。

       六

「言葉が足りなかったんだな。あなたが笑ったら、さぞ可愛いくて、ぼくはうれしい気持だろうと云いたかったのさ。あなたは観音様に似てるんだ。ちょッとリンカクが尖っているのは、職人が南蛮渡来なんだなア。腰の線が、又、そっくり南洋の観音様さ。な。南蛮渡来だって、日本なみに、笑ってくれたっていいだろうね」
 彼はビールをのみほした。そして、益々、好機嫌であった。
「こんなことを言いにきたんじゃなかったんだがな。ま、いいや。何から喋らなきゃいけないという規則があるわけじゃアないんだからな。ねえ。キッピイさん。そうだろう。ぼくはあなたに会えて、うれしいのだ。ぼくは、あなたの頬ッペタを、ちょッと突ッついてみたいね。普通、そんな気持には、ならないもんだね。接吻したいとか、肩をだきよせたいとか、そういう気持になるもんですよ。一般に、女というものに対してはね。ところが、キッピイさんは、ちがうね。ぼくは頬ッペタを突ッつきたいんだ。チベットの女の子は、コンニチハの挨拶にベロをだすそうだね。べつに頬ッペタを突ッつかなくとも出すんだとさ。だけどさ。南洋の観音様は、こッちの方から頬ッペタを突ッついてあげて、コンニチハの挨拶がわりにしたいんだなア。ベロをだせというんじゃないんだぜ。最もインギン、又、愛情こまやかに焚きしめた礼節としてですよ」
 青木はビールをのもうとした。頬杖をついてジロジロ目を光らしていたキッピイが、片手をのばして、青木が口に当てたコップを横に払った。コップは壁に当って、落ちて、割れた。キッピイは睨みつけて、
「じゃア、私の頬ッペタ、突ッついてごらんよ。タダは、帰さないよ」
 青木は酔っていたので、むしろ興にかられた。
「さすがに、あなたは、ぼくの考えた通りの人さ。そのトンチンカンなところがね。ほかの観音様は、みんなツジツマが合ってらア。神秘的というものはタカの知れたものさ。あなたは神秘じゃないんだな。要するに南洋と日本の言語風習の差あるのみ。ねえ。あなた。我々はその差に於て交りを深めましょう」
 青木は腕をつかまれた。そして、ひき起こされた。身ナリのよいアンちゃんであった。
「勘定を払えよ。そして、出ろ。いくらだい。このオトッチャンは」
 二千円であった。青木の蟇口《がまぐち》には、千八百円と小銭があるだけであった。アンちゃんは千八百円を女に渡した。
「二百円、まけてやってよ。仕方がねえや。おい。出ろ。足りないところは、カンベンしてくれるとよ」
「ヤ、アンちゃん。コンバンハ。しかしお前さんが出ることはなかろうぜ。ねえ、アンちゃんや。ぼくの話し相手はジャカルタの観音様さ」
 アンちゃんは、もはや物を言わなかった。彼の片腕をかかえて、グイグイつれだした。露路をまがると、ちょッとした暗闇の空地があった。男の腕がとけたと思うと、往復ビンタを五ツ六ツくらった。と、顔に一撃をくらッて、意識を失ってしまった。
 気がついたとき、男の代りに、立っていたのはキッピイであった。
「血をふけよ。紙をまるめて、鼻につめこむんだよ。鼻血の始末もできないくせに、この土地で大きな口をきくんじゃないよ」
 空地の隅の水道で、手と顔を洗わせた。
「利巧ぶるんじゃないよ。大バカでなきゃ、こんな目にあいやしないんだから」
 廻り道して大通りの近くまで一しょにきて、キッピイはさッさと戻って行った。


     五人目の人


       一

 放二は午ごろキッピイの自宅を訪ねた。これで四度目であった。キッピイはどこかへ泊りこんで、三日、家へ戻らなかったのである。
 四度目に、キッピイはいた。
 彼女は放二の根気にあきらめたようであった。
「あなた、何回でも、来るつもりなのね」
「ええ。お目にかかって、お話をうけたまわるまでは、何回でも」
 キッピイは有り合せの下駄をつッかけると、放二をうながして、外へでた。人通りのすくない道へ歩きこんでから、
「あなたはどういう人なのよ。記代子さんの何よ。ハッキリ言って」
「同じ社の同じ部に机をならべている同僚です」
「それから?」

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