どしてあげるわ」

       四

「近いうち、上京しよう。それまで、記代子のことは、そッとしておきましょうや」
 食事しながら、長平は言った。
「なに、ぼくが上京したからって、人の心をうごかすような力がそなわってるわけじゃなし、新しい希望や打開策が生れる見込みは有りゃしないさ。それでいいと思ってるのさ。色恋の世界には、先輩後輩はなさそうだ。子供はとつぜん大人になるし、大人になったときは、もう同列のものですよ。この道ばかりは、何十年かかったって、ムダはムダ、当人のことは当人だけしか分りゃしない」
「私はそれほど悟れないけど」
「それは、そうさ。ぼくは講壇派、ニセ達人だが、あなたは生活派の達人だ」
「私は常識的に考えているだけ。記代子さんが結婚前に子供を生むなんて、変だから。青木さんの子供なら、なお奇ッ怪でしょう。それだけのことなの。そうオセッカイでもないのよ。ただ目のふれるところで行われているから。目ざわりなのよ」
 久しぶりの対面であったが、せつ子の心はこだわりなく打ちとけて、のびのびしていた。それが長平に快よかった。こんなにこだわりなく、のびのび打ちとけてみせることができるのは、とにかく、すぐれたことだ。肉慾にこだわりがなく、それを没したようなスガスガしさがあった。
「記代子の話は、もう、よそう」
 長平は言った。百里離れて人の色恋を案じてみてもムダなことだ。
 長平は珍しく眼前の事実に充足するよろこびを味っていた。
「今日は珍しく、たのしいよ。風に乗って、たのしいことが運ばれてきたようなものさ」
 炎天の樹間をくぐって、いくらか涼風が通ってくるが、杯をあげているから、汗の量をへらすだけのタシにもならない。しかし、かがやく葉が草が、目にしみる。炎天の光も、時には、美しいものだ。
「君の気持は、わかるんだ。時々、風になりたくなるからね。ぼくら、風になると、むやみに酔っ払う。下賤なる風なんだね。誰も風の訪れをよろこんでくれないよ。女はお酒をのまないから、綺麗な風になるらしいや。自分が風になるよりも、よその微風が訪れてくれた方が、健康にもいいんだな。こんなソヨ風の訪れはめったに有るもんじゃないんだね」
 せつ子は長平のように浮いた気持にはなれなかった。
「お供はつらいのよ。社でアクセクしてるときは、なんとでもしてお金が欲しいと思うけど、ダメなのね。でも、つとめるのよ。今日までは、おッぽりだして来たことなんかなかったのだけど、ふらふら、とびだしちゃった。もっと娼婦になりきれる方が、立派なんでしょうね」
「そんなことは、クヨクヨ考えることじゃアないね」
「そう。立派だなんて、おかしいわね。誰かに、ほめられたいみたい。でも、そんな気持も、あるのよ」
「社長だものな」
「そうなのよ。社長でなければ、乞食になるのよ。そして、生きてるわ。今日は乞食の方の気持よ。微風の訪れでもなかったの」
 せつ子は胃が悪いから、酒をのむといけないのだと云いながら、かなり飲んだ。そしてテキメンに苦しみはじめた。長平が知人の医者へつれこむと、医者は顔をくもらせて、酒をのむと、ひどいことになるかも知れない、とせつ子を叱責するようにつぶやいた。
 せつ子は黙って、医者を見つめていた。顔色を微動もさせずに。そして、自動車をよんで大阪へ戻った。

       五

 長平は上京した。
 その日の夜中に長平の住む茶室の戸をたたいたのは青木であった。
「そろそろ隠れ家を変えなきゃいけないぜ。ここは拙者につきとめられているんだから、アイビキなぞには不都合だし、第一、タカリが怖しいやね」
 青木は遠慮なく上りこんで、
「とんだ合邦《がっぽう》さね。やってきたのは娘じゃなくて、ジジイなんだとさ。ヤ、コンバンハ」
 いくらか酔っているようであった。どっかとアグラをかいて、
「いずれ呼びだしをうけて、お叱りを蒙るんだろうから、手間を省きにきたのさ。え?」
 長平の顔をのぞきこんだ。
 長平はウイスキーをとりだした。彼は夜中や暁方にウイスキーをのんで、うたたねする習慣であった。一日に何回もうたたねするが、まとめてねむるのは一週に一回ぐらいのものであった。
「君に会う必要もないと思っていたのだが」
 青木にウイスキーをつぎ、自分ものんでから、言った。その落付きが癪にさわったらしく、青木はジリジリして、
「ハア。そうですか。何等親だか知らないが、君の何かに当ろうというこのオジサンにね。会いたくないのかい?」
 青木は自分の言葉に含まれた毒気に興奮して、目をギラギラ光らせた。長平はそれをそらして、
「君は何かぼくに言いたいことがあるのじゃないか。言うだけ、言ってしまえよ」
「言うだけ言ったら、どうするのさ」
「ねむるよ」
「相変らず、自分の都合だけ考えている人だね。なんと言ったら、気がすむのかね。ワタクシが記代子嬢を誘惑しました、と言ったらいいのかい?」
「おい、よせよ。法廷とちがうのだ。だから、なにも、きいてやしないじゃないか。言いたいことだけ、言うがいいや。さもなきゃ、帰りたまえ」
「なア、長さんや。君は、ぼくがどうしたらいいと思う。子供が生れるんだぜ。ぼくは、どうしたら、いいのさ」
「君はどうしたいのだ」
「それが分らないんだよ。なア、長さん。オレをあわれんでくれよ。どうしていいのか、わからん男を。なア。いい年をして」
 記代子が青木にニンシンをうちあけたのは、伊豆の温泉宿だった。
「あなた、まだ、本当に、子供なかったの」
「本当になかったよ」
「子供、ほしい?」
 青木は答えることができなかった。自分の都合は問題ではない。自分のために子を生む記代子をあわれんだのだ。
「君は、欲しいのかい?」
「あなたは?」
 青木は記代子が後悔していないことを知った。どこに拠りどころがあるのだろうか。人生の敗残者、五十のおいぼれの子を宿して。その無邪気さが、あわれであった。
 しかし、青木が答えに窮していると、記代子は青木の顔を見つめて、
「殺しちゃう?」
 彼は記代子の目に追いつめられて、うろたえたのだ。あの目を青木は忘れることができないのだ。何を語っている目だろうか。
 子を殺す、生む、それだけのことではないのだ。暗い一生をあゆむたった一つの小さい窓。あんな目にさせたのが自分だと思うと、たまらなかった。

       六

「なア、長さんや。恋愛だの、結婚だのッて、太平楽なもんだと思うよ。記代子さんて人は、その太平楽な身分に似合った人なんだね。ところが、ぼくとのことで、そうじゃない立場に落ちたわけだね。それを記代子さんは知ってるんだよ。本能的にね。恋愛だの結婚だのという太平楽なものと戦争状態の立場になってしまったという現実をさ。彼女は襟首をつかまえられているよ。運命というものにね。そして、ただ決意を要求されているんだ。それがあの人の目にでているのさ。ほかにでやしないや。だって、どこにもギリギリの決意なんて、ありゃしないものな。あるのは特攻隊みたいな切なさだけなんだ。それを見るぼくは、うろたえますよ。ねえ。だって、悲しくなるじゃないか」
「気分的なことは、どうだって、いいじゃないか。もっと実際的にさばく手段をさがしたらどうだろうね」
「大人ぶったことを言いなさんな。実際的にさばくッたって、根は気分が心棒じゃないか」
「ほんとかい? とつぜん行動するとき、気分をふりすてるもんじゃないのか。まるで気分と似つかぬことをやるもんじゃないのか。気分屋は、特にそうだぜ」
「それは、まるで、愛情にひきずられるな、というみたいだね。あわれんでも、いとしがっても、ムダなのかな」
 青木はつぶやいた。そして、全身に敵意がこもった。
「わかったよ。長平さん。そして、ぼくは安心したよ。大庭長平という人は、自分勝手すぎるぜ。あなたは、自分の姪が、どうなっても構わない自分だけの人なんだ。たとえば、子をだいて、男にすてられようと、どうなろうとね。ねえ、長平さんや。ぼくはあなたにヒケメを感じていたんだ。記代子さんのようなウブで世間知らずの可愛い娘を、ぼくのようなオイボレ敗残者がいつまでも自分のものにしておくというイタマシサについてね。しかし、今はそうじゃない。あなたのような冷めたい人にくらべれば、ぼくの方がどれぐらいあの人の親身の友であるか知れないんだ。ぼくはもう、安心して、あの人を誰の手にもやらないよ。愛すことも、すてることも、ぼくの自由だ。いずれにせよあなたにくらべて、ぼくの胸に愛情がこもっているのだから」
 長平は返事をしなかった。ウイスキーを青木にさした。
「まア、のめよ」
「そろそろ、帰るとしよう」
「オレがどういう人間であろうと、オレのことが記代子を愛す愛さないの標準になるてえのは、どういうわけだね。君は、まるで落付いていないな」
「だからさ。全然、とりみだしでいるんだよ」
「オレは、まったく、記代子がどうなろうと構わないと思っているよ。君にすてられようと、愛されようと、それで記代子の一生が終るわけではなしね。どっちへどうなろうと、その又次にも、何かがあるものだよ。事がなければ幸せだというわけでもなしさ。亭主が立身しようと、貧乏しようと、そこに女の幸福の鍵があるわけでもなし、さ。幸福の鍵なんてものは、もし有るとすれば、一つしかないものだ。いつも現実の傷を手当てしろ。傷口をできるだけ小さく食いとめ、痛みを早く治せ。それだけの対症療法があるだけさ。君は、何か、手当てについて、考えたり、やってみたり、したかい?」

       七

「君は太平楽な人さ」
 青木はしみじみ呟いた。
「対症療法だって、人間はみんな患者さ。すくなくとも、ぼくたちは、そうだぜ。みんな、とりみだしているだけなんだ。医者じゃないんだから、手当の仕様が分りゃしないじゃないか。この夜更けに君に会いにきたのだって、いわば手当の法を教えてもらいたいと思ったからだぜ。自分流儀じゃ、化膿してゆくばかりだからな」
 青木は涙をまぎらすような力のない笑い声をたてた。
 青木は今度のことについて、事の起りはどうあろうとも、責任を感じていた。それは年齢を考えてみれば、当然のことだ。
 一つにはヤケクソの気持があった。自分と長平との行きがかりから、こッちだって構うものかという気持がはたらいていたことは否めない。それをつとめて自制してきたことに多少の誇りはあるけれども、結局それがはたらいているのである。
 長平がそこを怒っているだろうと青木は考えていたのである。そこを怒られるのは、つらくもあるし、いくらか気のはれることでもあった。そして、怒られることによって、心が洗われ、二人の魂がふれ合うこともできるような、ひそかな愛情を感じてもいたのだ。恩讐の彼方に、という甘い友情に飢えていたのである。
 長年の仇敵がすべてを忘れて粗茶をくみ交し、四方山話にひたる。いかにも世捨人の慾のない交情を空想しているような甘さもあった。
 すべての空想は当て外れだ。長平は内々怒っているかも知れないが、彼が怒られるだろうと思ったところは、問題にしていないのだ。それは淡々として心が枯れているから、というようなせいではないのだ。
 なんて毒々しい男だろうと青木は思った。人間の毒気という毒気をすべて身につけているための、そして、あらゆる毒の上にアグラをかいているための落付きであり無上の寛容さであった。
 世捨人などとは以ての外の話である。およそ慾念のかたまりで、人生を毒と見ている鬼畜なのだ。
 青木は自分と長平との余り大きな距りに組み伏せられたようであった。共に通じ合う余地はなかった。避けて遠ざかるか、縋って甘えるか、どちらかしかないようだ。
 なんて傲慢な悪党だろう。青木はそう思う一方に、わが罪の切なさに、涙があふれてくるのであった。
「ねえ、長さんよ。どうしたら、いいのよ」
 青木はむせる涙に苦しんで、ころがって、頭をかかえた。涙のかわくのを待って、身を起して、
「ぼくは野たれ死んでも構わないし、自殺すりゃ、すむことなんだ。記代子さんを助けてやってくれよ。オレなんか、どう
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