、ルミ子の部屋の戸をたたいた。
「あけろ! 千円札が来たぞ! ここには、可愛いい女の子が住んでることを知ってるんだからね。千円札で目をさまし、千円札で扉があく。千円札が、来てるよ」
放二が来て、彼のうしろに立っていた。
「なんだい。あんたかい。ここは、あんたのくるところじゃないぜ。千円札のくるところだ」
「これをお忘れなんです」
放二は青木に帽子を渡した。そして立ち去った。
十一
翌朝、青木は見知らぬ部屋で目をさました。ねているのは、彼だけだった。どうしてこんなところに居るのだか思いだすことができないうちに、襖があいて、現れたのはルミ子であった。
「千円札、目がさめてる?」
「ここは、どこ?」
「私は誰?」
青木はようやく分ってきた。ルミ子の部屋には先客がいたのだ。彼はルミ子にみちびかれて、近所の宿屋へねかされたのである。
「私の部屋へくる?」
青木はうなずいて、立上った。
ルミ子の部屋は、客を送りだしたばかりであった。青木はそのフトンの上へころがりこんで、
「誰かの体温がのこっているよ」
「もっとタクサンのこってるのよ。私のからだの中にね」
「君だけだな。ぼくを締めださないのは」
「千円札のあるうちはね」
「そうだっけ。そんなこと、怒鳴ったのを覚えてら。どこかで、ひッぱたかれたッけ」
「そう。八重ちゃんにね」
「ちがう。オデン屋のオヤジだろう」
「八重ちゃんにもよ。覚えていないの?」
「どこで?」
「兄さんのお部屋でさ。私にお客があったから、八重ちゃんに世話してあげたら、お前なら百円札でタクサンだッて喚いたからさ」
「ひッぱたかれたのは、それだけかい」
「あんたが、ひッぱたいたわ」
「誰を?」
「兄さんを」
青木は驚いてルミ子を見たが、とくに非難しているような顔付でもなかった。
「北川君をぶつなんて、妙だな。なぜ、ぶったろう?」
「酔っ払いだからさ」
「何か言ったかい? 女のことかなんか」
「あんた、なぜ、顔をあからめるの?」
「変な観察は、よせ」
「なぜさ。あんたぐらいの年になって、そんなことを言いながら顔をあからめるなんて、スッキリしてないね。救われないから」
「救われたかないんだから、いいやな」
「あんたのことじゃないのよ。救われない顔、見せられる方が因果だから。あんたぐらいの年配の人は、たのもしいような顔をするものさ。公衆衛生だから。街路美化週間なんていうわね」
「で、女のことを、言ったかい」
「誰のことを?」
「おい。ハッキリ、言えよ」
「あんた、シッカリ、しなさいよ」
ルミ子は青木を見つめた。
「あんたぐらいの年になって、そんなことが気がかりなの? 女のことを言ったか、言わなかったか、なんて」
「おい。割りきったようなことを云うな」
「そう。でもね。その女の人が、気の毒だと思うのよ。年配のオジサンが、こう救われなくちゃアね」
「ま、いいやな。とにかく、女のことを、何か言ったかい?」
「言わなかった」
また、ルミ子は青木を見つめた。
「それで、安心した? あわれじゃないの」
「バカな。人間とコンクリートをまちがえちゃアいけないよ。じゃア、失敬。可愛いお嬢さん」
青木はアパートをとびだした。
泣き男
一
穂積が京都へきて、話のついでに、青木と記代子のことを長平に語ってきかせた。記代子が長平の姪であることは百も承知のはずだが、千里距てた異邦人の噂をしているように、うっかりすると聞きもらしそうな話し方であった。
長平は記代子のことに驚くよりも、穂積の悠長な話しぶりに心をひかれて、
「君、わざと気をつかってくれたのかい?」
「え?」
「ぼくをビックリさせないために、わざと悠長な話し方をしたのかと訊いているのさ」
「ハッハア」
穂積は雲をつかむような笑い方をした。わざととぼけているのかと思うと、苦りきって、
「当節、人のことで気をつかっちゃいられませんよ」
「へえ。なぜだい?」
「ハッハア」
また、雲をつかむような笑い方をした。
「ですが、人生は、事もなく、また、若干、多忙ですな」
「なんのことだい」
「とにかく、人間というものは人の噂をしたがるものですよ。他人の身の上は多事多端ですな。そして当人だけは、事もなく、わが身に限って何一つ面白いことが起らぬような気でいるものですよ。そのくせ、あらゆる人間が人の話題になるような奇妙な身の上をしているのですな」
「なるほど」
まったく、人生はそんなものかも知れない。彼自身にしても、梶せつ子と関係をもつに至った一夜の出来事などは、人の絶好な話題になるものであろう。しかし当人には、さしたる事ではない。今後せつ子と同様な機会が起らなければ、あの一夜は、単に過去という無の流れに没し去っているにすぎない。似た機会が起るにしても、二つの夜は、その時に限って継続しているにすぎないのだ。せつ子のように多事多端な毎日をすごす人でも、当人の身には事もない一生であるかも知れない。
「すると、君自身の特に最近の実感だね。事もなく、又、多忙をきわめているらしいな」
「多忙を自覚する人と、自覚しない人に分類して、ぼくはやや自覚派に属していますよ」
「君がかねえ。そんなにとぼけてねえ」
「とぼけているのは顔だけですな」
「青木君と記代子の二人はどうですか。自覚派かも知れないな」
穂積はちょッとうつむいて考えこんでいたが、ちょいととがめだてるように、
「ひどいねえ」
「なにが?」
「記代子さんは、先生の姪ですよ。まるで赤の他人の話のように」
「へえ。そうかい。ほくが君に訊きたかったのが、それなんだぜ。当人が姪の身の上を他人同様きき流すのは当人の自由なんだぜ。ところが、それをぼくに語ってきかせる君の場合は、世間なみの礼義みたいな気兼ねがありそうなものじゃないか。御愁傷様というような、ね。ぼくの目からは、君の方がトーチカのように見えるんだがね」
「ハッハア」
穂積は明るく笑って、
「だから、人のことで気をつかっちゃいられないんです。その代り、自分のことじゃア、慟哭しますよ」
「バカに都合がいいんだね。それで安心しているわけじゃアなかろうね」
二
「しかし、これに就ては、どうですか。五十がらみの男と二十の娘が恋仲になってですな。まア、一般的な感情として、男に好感がもてないのが自然だろうじゃありませんか。ところが案外にも、男の方は、なんとなく引き立ってみえるんですな」
穂積はハッハアと笑って、
「しおれた野草のような青木さんが、一輪ざしの花のように生き生きと、ハッハ、まア、それぐらいに見える瞬間もなきにしもあらずです。それにひきかえて、二十の娘は徹底的にウスノロに見えるんですな。けだし、ぼくのヤキモチのせいでしょうかね」
そして穂積は記代子の恋愛状態のウスノロぶりについて例をあげて語ってきかせた。
そのことがあってから一月あまりすぎて、梶せつ子が京都へきた。
十一二の男の子が二人、せつ子が紙キレに書いたものを長平の住居へ持ってきた。こッちへ旅行に来たから寄ってみた。別に用があるわけでもないし、在宅かどうかも分らないから、ボンヤリ外に遊んで待ってるが、ヒマだったら食事でもしませんか、というようなことが走り書きしてあった。
子供の案内で、近所のお寺へ行ってみると、木立の中で、せつ子は子供たちと蝉をとっていた。
「お早う。まだ、十時半よ」
「ぼくは早起きだよ。荷物は?」
「ちょッと散歩にぬけだしてきたのよ。大阪から」
「じゃア、殿様のお供だね」
せつ子は軽くうなずいてみせた。
「京都の子供ッて、東京の言葉がわからないのかしら?」
「どうして?」
「お手紙とどけてちょうだいッて頼んだんです。なかなか分ってくれないのよ」
「それは君の頼みが奇怪だから、理解できないのさ」
「いいえ。理解しようとするマジメな気持が顔にアリアリ現れているのよ。言葉が通じないらしいわ。京都にも気の短い子がいるのよ。言葉が通じなくッて、モシャクシャしたらしいのね。インデコ、だって。わかる?」
「インデコ?」
「もう、帰ろう、ッてことなの。さッさと逃げて行っちゃったわ」
せつ子は板チョコを折って長平にくれた。子供たちがチョコレートをかじっているところをみると彼女が配給したのに相違ない。せつ子が手をふってサヨナラと叫ぶと、古都の子供たちは、サヨナラ、バイバイと言った。
「浩然の気を養うという大人の風格があるよ」
と、感心したのか、ひやかしたのか、わけのわからないことを長平が言うと、せつ子はなさけなそうに苦笑して、
「ゴキゲンとりむすぶの、つらい。息苦しくなるのよ。でも、こんな、息ぬきに散歩にでたりして、とても一流じゃないわね」
そして、道ばたの犬に、じれったそうに口笛をふいた。
「記代子と青木はどうしてる? まさか、死にもしないだろうね」
せつ子は驚いて長平を見つめた。
「どうして、知ってらッしゃるの?」
「穂積君がきかせてくれたのさ」
「知られぬ先に、処分しようと思っていたのに」
「処分て?」
せつ子はボンヤリ口をつぐんでいた。
三
「処分とは、おだやかならんね」
重ねて、こう問いかけると、せつ子はものうそうに目をうごかして、
「誰にも知られないうちにと思っていたのよ」
「だって、ぼくは叔父じゃないか」
「だから、尚さらのことよ。こんなこと、肉親は知る必要のないことよ」
「そういうもんかね」
「わかってるくせに」
せつ子は悠々と歩いていた。
「記代子さんは見かけによらぬアマノジャクよ。ダタイなさいとすすめても、フンという顔よ。私を嘲けるような薄笑いを浮べるだけなの」
「じゃア、記代子はニンシンしたのかね」
せつ子はうなずいて、
「私のほかには知られていないと思うけど」
「青木だろうね、男は?」
せつ子は、又、うなずいた。
考えてみたって、仕様がない。長平は観念した。人間はみんなそれぞれ一人前に動きだすのが当然なのだから。どこといって、ぬきんでたところもなく、一風変ったところも見えない記代子なのだが、お半だのお七だのと思いきったことをやらかす女は、平凡で取柄のない小娘にかぎるのかも知れない。
それまでは予想もしないことであったが、恋をしたあとの記代子のふてぶてしさが、にわかに思い当るような気にもなった。
「なぜダタイしないのだろうね」
「なぜでしょう」
「よほど、頭がわるいんだろうな」
「平凡な子ほど気違いじみたことをしでかすわ。女の本能が気違いじみているのね」
「静かにさとしたらどうだろう。気が立っているだけじゃないかな」
「そうでもない。私の能力でできるだけの手をつくしてみた。青木さんの子供なんか、生ませたくなかったから」
手を変え、品を変え、さとしたり、すかしたりした時のことを思いだすと、腹のたつことばかりであった。
青木の口からダタイをすすめさせもしたし、青木もそれに不賛成ではなかったが、記代子はきかなかった。青木もあきらめて、
「結局ダタイをすすめることが、何よりダタイしないという決意をかたくさせるようなものさ。ねえ、社長さん。ほかに理由がありますか。ぼくには、てんで見当がつかない」
彼は力つきて、こうせつ子に報告した。
「あなたは子供を育てますか」
こうきくと、青木は決意の重さにおしつぶされそうな、蒼ざめた顔をひきしめて、激しすぎるほどキッパリ言うのだ。
「むろんですとも。ぼくの子供ですよ。考えてみると、ぼくの足跡はこれだけなんだ。そう考えてニンシンさせたわけではありませんがね。みじめな男は、足跡がのこるまでは、それを欲してやしませんからさ」
カラカラと、目まいでもしているような笑いをたてるのであった。せつ子は顔をそむけた。思いだしても悪感がすると思うのだ。
「放二さんと記代子さんを、結婚おさせなさろうとお思いじゃないこと?」
せつ子は長平をみつめて、
「先生のお考えはどうなの? 先生がそれを希望なさるなら、私、必ず記代子さんをダタイさせます。いいえ、むかしの処女にも
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