黒ン坊に身をまかせて腹イセをするというような話がね。それにしても、ぼくに白羽の矢をたてるというのが、頓狂すぎるというものだ。お嬢さんや。よく、おききよ。あなた方の年頃では、遊びというものを、みんな軽く、同列のものに考えているのだね。しかし、男女の遊びは、別のものですよ。とりかえしがつかないのだからな」
「私は、遊びではないの!」
 記代子は叫ぶと、すぐ立上って、大股に歩き去ってしまった。
 青木は別の店で焼酎をのんだ。そして宿へもどると、彼の部屋に記代子が待っていた。

       七

 青木はわざとドッカとアグラをかいて、うちとけてみせて、
「やれやれ。疲れるなア。遊びたい盛りのお嬢さんが退屈して姿を消すまでつきあってあげるのは。なんて、逞しい根気だろう。まさしく、面白ずくの一念だね」
「そう?」

「まアさ。あなたは昨日から怒りすぎるよ。もっと平静に話しあいましょう」
「あなたが、怒らせるのよ」
「怒らせるつもりで言ってるんじゃないんだがなア」
「いま、なんて云った?」
「……」
「面白ずくって、なによ。そんなふうに、見えて? 私、遊んでやしないわ。離婚して、バアで働いて、礼子さん、甘チャン。文学的すぎるわ。私も、そんなに見えて?」
 これが記代子の本心だろうかと青木はいぶかった。
 記代子の恨みは礼子をめぐり、礼子に比較して自己を主張しているのである。礼子のバアでも、記代子の態度は際だって大人びており、対立的な感情が尖鋭であった。
 記代子の意識が礼子をめぐっていることは、青木によせる感情が、放二のせいばかりでなくて、かなり本質的なものであることを表している。そう思っていいのだろうかと青木はいぶかった。
 礼子の離婚の原因が、長平のせいだということも、記代子は知っている。そして、礼子を少女趣味だと面罵しているのだ。
 それらのことを考えると、記代子は礼子との年齢の差を無視しており、礼子が長平によせる対等の感情で、青木に対しているように思われた。
 してみると……青木は考えた。記代子の愛情の本当の根は、長平にあるのではあるまいか。えてして少女というものは、まず肉親に愛情をもつものだ。どッちにしても、彼自身が本当の対象だとは思われなかった。
「ぼくの昔の奥さんが長平さんにあこがれて離婚したということ、誰にきいたの?」
「そんなことが知りたいの?」
「なるほど。別に知らなくともいいことらしい。だが、ねえ、お嬢さんや。ぼくの昔の奥さんは、たしかに文学的で、少女趣味ですよ。しかし、あなただってさ。文学的なお嬢さんに相違ないと思うんだね。なぜなら、現世に生きる人間というものは、一応常識というものを思考の根抵におかなければいけないものですよ。だが、記代子さんは、限られた小さな現実を全部のものにおきかえているね。思考の根が、常識でなくて、あなたを主役にした劇なんだ。夢なんだよ」
「それでいいと思うわ。じゃア、あなたは誰のために生きているのよ。放二さんのためなの? それとも別れた奥さんのためなの?」
「それは、人生というものは、云うまでもなく自分のためのものさね。しかし、自分の位置、限度というものを心得なければいけませんよ。あなたはツボミのようなお嬢さんだし、ぼくは花ビラの散りかけた老いぼれですよ」
「そんなことが理由になるのは、ほかのことがあるせいね。正直に云えないことがあるからよ」
「なア。記代子さん。もっと打ちとけて、茶のみ話をしようよ」
「イヤ」
 記代子は立ちあがった。

       八

 青木は記代子を送ってでた。
「なア。記代子さんや。こんなことで、怒ったり、怒られたり、よそうじゃないか。毎日、ノンビリ、コーヒーやビールや焼酎でものんで、バカ話をし合って、たのしく過そうじゃないか。そうするうちに、二人の心が通じ合うようになると思うんだがね」
 肩を並べて歩きながら、青木は懇願した。つとめて情慾を殺すには、そんな態度をとる以外に仕方がないのだ。そのくせ、立ち去る記代子を立ち去るままに放っておくことができないのは、可憐な記代子に断ちがたいミレンのあるせいだ。
 相剋する二つの心を、興ざめた目で見送る以外に手もない。
「なア。よく考えてくれよ。ぼくは叔父さんの友だちなんだぜ。叔父さんというものは、あんたのオヤジの兄弟じゃないか。オヤジだの、オヤジの兄弟なんてものは、あなたの友だちと違わアね。ぼくだって、そうなんだ。ぼくは、あなたにとって、甚だ親切な友だちさ。あなたのオヤジや、オヤジの兄弟のようにね。しかし、本当の友だちというものは、こんなに親切ではないものなんだ。たとえば、若い者同志はね。ここのところをカン違いしちゃいけないよ」
「喋るの、よして! こんど喋ったら、駈けだしちゃう」
「こまったな。ちょッとぐらい、喋らなきゃア、歩きようがないじゃないか」
「うるさいッたら!」
 記代子は激しくふりむいて、とびかかるように、手で青木の口を抑えた。青木はハズミをくらって、反射的に防禦の手をあげてしまったが、その小指が記代子の口にふれた。記代子は青木を見つめたが、力いっぱい小指をかんだ。
「痛……」
 青木は苦痛にたえようとした。噛まれた指をハシタなくひっこめるのをこらえようと努めていると、記代子は再び、力いっぱい噛んだ。
 青木は指が噛みきられたように思ったほどだ。あまりの痛さに茫然として、たたずんだが、記代子にみじめな思いをさせては、と、指の傷をあらためようとせず、ハンケチをとりだして笑いながら脂汗をふいた。
 記代子は一部始終を見つめていたが、
「指みせて。どんなになった?」
 青い歯型がハッキリついて、血のにじんだところもあった。
「痛かった?」
「うん」
「なぜ痛そうにしなかったの?」
「しなかったかい?」
「泣くかわりに、笑ってみせたわ。なぜ、指の怪我をしらべてみようとしなかったの?」
「痛すぎて、ボンヤリしたのさ」
 しかし記代子は見ぬいているのだ。青木が記代子をいたわるために、指の怪我すらしらべようとしなかったことを。
 青木の胸はふくらんだ。
「君、ぼくの指を本当にかみきるツモリじゃなかったの?」
「そうかも知れないわ」
 青木は記代子をだきよせて、くちづけした。そして明るい道まで送って、
「ねえ、記代子さん。ぼくたちは毎日たのしい四方山話をしようよ。すると、二人の心が通じあってくるよ」
「ええ」
 記代子はニッコリ笑った。そしてスタスタ行ってしまった。

       九

 青木はいったん宿へもどったが寝つかれなかった。思いたって、放二のアパートへでかけた。
 放二はまだ帰っていないから、マーケットのオデン屋で一パイやりながら待つことにした。ここにいると、帰宅の放二をよびとめることができるのである。
「放二さん、いつも帰りがおそいってね」
「ええ。毎晩あたしが店を閉めかけるころにね」
「お酒に酔って?」
「いいえ。ビール一杯で真ッ赤になる人だから、一目で見分けがつくんですが、よくねえなア。とにかく人間、お酒をのんでるうちが花ですぜ。グッタリ疲れきってお帰りでさ。お仕事が忙しいんですッてね」
「ぼくは御覧の通りだがね」
「上ッ方はね」
「冗談云ッちゃアいけませんやね。北川君が上役なのさ。年の功で、月給だけは、ぼくがいただいてるらしいがね」
「ヘッヘ」
 なんとなく来てみたものの、放二に打ちあけて語る性質のものではないようだ。たかが小娘の出来心だ。とまどって人に相談しなければならないようなウブな初心者ではないはずであった。
 青木がとまどったのは、彼自身の獣性についてゞあった。そして、彼を獣性にかりたてる複雑な心理についてゞあった。
 彼の念頭にひらめく主要な人物は、記代子ではなくて、長平だ。また、礼子であり、せつ子であった。
 彼は復讐について考える。これほど簡にして要を得た復讐はない。そこで誘惑は激しいが、復讐というものは、空想された願望の中では人は極端に悪魔的でありうるけれど、現実のものになってみると、そう悪魔的ではありえないものだ。むしろ悪魔と闘う気持が激しくなる。
 青木は復讐の激しさや悲しさにとまどった。どうしていゝか、わからない。なにかに縋らなければ、胸の切なさを持ちこたえることができないようであった。
「なア。おッさんや。カストリだのパンパンてものは、妙なものだね。あなた、なんだと思う?」
「へえ。なんでしょう」
「神様ッてものは、ノドがかわいたり、ゲラゲラ笑ったりするものなんだぜ」
「そんなものですかねえ」
「そんなものなんだよ。すべてが具わったものでもないし、万能でもないのさ。そして、奴らは――奴らッてのは、神様のことだよ。奴ら、ノドがかわいたって、貴族の食卓へ行きやしないよ。カストリとパンパンを買いに行くんだ。ぼくみたいにね」
「ハア。あなた、神様だね」
「まア、そうさ。ノドがかわいてるし、ゲラゲラ笑いたいからね。なア、おッさんや。ぼくが北川放二君を信用しないと云ったら、あんた、怒るかい。だってさ。パンパンが彼を神様だの、ふるさとだのッて云いやがんだ。笑わせるな。ノドがかわいたり、ゲラゲラ笑わない奴、信用できるかッてのさ。甘ったれるな。ハッハ。しかしさ。カストリとパンパンは、甘ったれたところがネウチなんだぜ。笑わせやがら」
「笑いなよ。勝手に」
「お前さんなんかに、可愛がられたくないんだ。パンパンにもよ。バカヤロー。オレはパンパンに軽蔑されにきたんだ」

       十

「なア。放二さん。パンパン街の神様や。笑わせるな。気どるなッてんだ」
 青木はコップを握って、ゆれながら、放二に毒づいた。放二は黙っていた。
 オデン屋のオヤジが見かねて、
「良い年をして、くどいよ。いい加減に、よさねえか」
「だまってろ。チンピラ善人。よって、たかって、甘えてやがら。お前さんたちが甘えるッてことは、甜《な》めるッてことなんだぜ。お前さんたちが甜めてるものが、ホンモノなのさ。そんなことは、お前さんたちには、わからねえやな。オレはこの街の神様に、放二さんにさ。甘えにきたんだ。だから、ツバをひッかけてるのさ。そんなことは、お前さんに、わからねえのさ。チンピラの宿命だからな」
 青木の顔には脂汗とせせら笑いがにじんでいた。
「なア。放二さんや。あんたが、童貞だか、そうでないか、知らないが、とにかく、あんたは、童貞という規格品ですよ。童貞マリヤのメダイユみたいに、パンパンだの淫乱娘の胸に鎖をつけて吊るされているかも知れないが、あんた自身は、生きている何物なんだろうな。人間はノドがかわくと、水をのむんだ。神様だって、そうなんだぜ。あんたは、ノドがかわいてもジッと我慢するだけじゃないか。それが、どうしたってのさ。え、オイ、規格品。しッかりしろよ。しみッたれるな。可愛がられるなよ。憎まれろよ。だからさ。オレが憎んでやるんだ。なア。あんたには、いくらか、わかるだろうな。オレの愛情というものがさ」
「自分だけ、偉いと思ってやがるな」
「チンピラはだまってろ。オレが偉いと思ってりゃア、こんな子供のところへ甘ったれに来やしないやね。天に向ってツバを吐いてるのだぜ。お前さんなんぞは、ツバは地に吐いてると思ってやがる。それしか知らねえのだからさ。お前なんかに可愛がられちゃ、人間はオシマイなのさ。ひもじいパンパンや学生かなんかに、オデンを一皿めぐんでやって、けっこう善事をはどこしたと満足してやがら。うすぎたないぜ、この町は。しみッたれた人情がしみついてるよ。軽蔑されたいとか、憎まれたいとか、肝心なことは忘れてやがる」
「でろ」
 オヤジは店の外へまわってきて、青木を突きだした。
「そんなことしか、知らねえな。そうだろうと思っていたのさ。なア、おッさんや。お次は、パンパンと、ひッぱたくか。よかろう。やってもらいたいね」
「おのぞみかい」
 四ツ五ツ往復ビンタをくらわせた。青木はせせら笑って、なぐられるままに、まかせていた。
 オヤジはふりむいて、店へひッこんだ。青木は追わなかった。ふらふらと放二のアパートへあがりこみ
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