記代子はなぜか顔色を変えた。一息にグラスをのみほして、
「もっと、ちょうだい」
「あんまりハデな飲み方をしないでくれよ。お嬢さんがのびちゃうのは、御当人は太平楽かも知れないが、連れの男は、憎まれたり疑られたり、楽じゃないからな」
 記代子は、又、一息にほした。
「お代り、ちょうだい」
「よせよ。もう、あんたは六パイだ」
「でましょう」
 道へでると、記代子は腕をくみ、肩をよせた。グイグイ押しつける。足はシッカリして、酔ってるようにも思われないから、青木は小娘の大胆さに当惑して、
「もう、お帰り。駅まで送るよ」
「イヤ」
「もう、のめやしないよ」
「話があるのよ」
「じゃア、喫茶店で休むか」
「いいえ。歩きながらが、いいの」
 記代子は暗い道へ曲りこんだ。
「なぜ、いじめるのよ。なぜ、意地わるするのよ、毎日」
「え? どんな意地わるしたろうね」
「してるわ。なぜ、放二さんを誘うのよ。毎日、きまったように」

       三

 やっぱり子供だな――と青木は思った。放二を思いつめているのだ。それは分りきったところだが、それをこんな見えすいた言いがかりで表すところが幼い。
 青木は笑って、
「お嬢さんや。こまった人だな。あなたの気持はわかるが、ぼくがいたわってあげる気持も察してくれなくちゃアいけませんよ」
「だから、私をいじめてるじゃないの」
「どうして?」
「男は男同志って、そんなことなの?」
「妙なことを云うね」
「放二さんをいたわって、私をいじめてるのよ。私なんかは、いたわる価値がないのね」
「やれやれ。そうか。お嬢さんを説得するには、言葉の厳密な選択と行き届いた表現が必要なんだな。いいかい。記代子さん。ぼくがいたわってあげているのは、あなたと放二君の、御二方だよ。二人の恋人の一方をいたわることは、他の一方をもいたわることにきまってるじゃないか」
「私は、どうなっても、かまわないのね」
「やれやれ。どう云ったら、表現が行き届くことになるのだろう」
 二人は小さなバアの前を通りかかった。記代子は青木を取りおさえでもするように、腕に力をこめて、押した。
「ここで、休むのよ」
「え?」
 そこは礼子の働いているバアだ。記代子に教えたはずはなかったが、知っている様子である。
「こゝに、ぼくの昔の奥さん、働いてるの、知ってるんだね」
 記代子は睨んで、答えない。
「誰が教えたの?」
「休みましょうッたら」
 記代子は身体ごと押した。
「ま、待ってくれ。ぼくの立場を考えてくれよ。修学旅行の女学生が色町をひやかすような気分で、ぼくをオモチャにしてくれるなよ」
「女学生じゃなくッてよ」
「すまん。しかし、な。別れた奥さんがお客さんにサービスするのを見るだけだって悲しいんだ。あれがふられた亭主だなんて、そんな哀れな顔を見たがっちゃ、いけないよ。それに、今日は、持合せがないのさ。別れた奥さんにたかって飲むほど、みじめな思いをしたくないんだ。それぐらいなら、泥棒がマシさ。なア、記代子さん。あんた、ぼくが泥棒なみに生きてきたこと、見て、知ってるじゃないか。しかし、別れた奥さんに、たかりたかアないんだよ」
 記代子の目にあらわれたのは、軽蔑の色だけだった。
「私がおごるわ」
 記代子は強い力で、青木を地下の酒場へひきずりこんだ。客はかなりたてこんでいた。記代子はあいてるソファーへかけて、
「カクテル、二つ。ジン台の辛いカクテル。それから、礼子さん、よんでね。こちら、礼子さんの昔の旦那様。意気地なしよ」
 記代子の態度は、なれていた。そして、見ちがえるほど、大人びていた。
「あなた、この店へ来たことがあるね。前に」
「穂積さんと飲むとき、いつも、ここよ」
 そうか、と青木は思った。そして、それを今まで黙っていた記代子、突然それをあばきだした記代子の心を考えた。

       四

 礼子がカクテルを持って現れた。記代子は軽く会釈して、
「つれてきてあげたの。意気地なしを。入口でふるえてたわ。ほら、蒼ざめてるでしょう」
「ヤ。こんちは。ぼくの昔の奥さん。まさか、ふるえもしないがね。しかし、貧ゆえには、ふるえもするさ。今日は持ち合せがないんでね。まさか昔の奥さんに飲ませてもらいたかないからさ。それで、ふるえましたよ。すると、お嬢さんが、おごるというんでね」
 青木は笑いながら、懐時計をはずして、
「明日、うけだしに、くるよ」
「もう、こないで」
 礼子は懐時計を押しかえした。そして、記代子に、
「お嬢さんも、バアへいらッしゃるの、よくないわ。女のくるところじゃありませんわ。大庭先生に叱られますよ」
 記代子は別れた夫婦の再会を、好奇の眼差で凝視していた。グラスに手をふれることも忘れて。
 礼子の言葉に短い観劇をさえぎられて、いさゝか苦笑してグラスをとりあげたが、
「礼子さん。新しい恋人、みつかって?」
 礼子は興ざめた顔をそむけた。それを見ると、記代子の目は興にもえて、
「女がきちゃいけないって、なぜ? 礼子さんだけは、大人だから?」
「まア、そうよ」
「大人って、どういうこと?」
 礼子は顔をそむけて、答えなかった。
「たぶん、恋愛の冒険者だから? そうでしょう。旦那様をすてたから? 家庭の殻をとびでたから? そうでしょう」
「そうよ」
 礼子はうるさそうだった。すると記代子の目に生き生きと微笑がこもった。
「子供だわ。礼子さんは。十いくつのお姉さんと思われない。女学生のよう」
「あら、そう」
「長平叔父さんのどこがお好きなの? 有名だから? 才能があるから? 芸術家だから? お金持ちだから? 威張ってるから? そのほかに、何か、あって? 平凡。少女趣味ね」
 礼子の目は怒りに燃えたが、記代子は冷静に見返して、目にこもる微笑は微動もしなかった。
「英雄気どりの偉い人、偉い人を崇拝する人、どっちも、きらい。子供たちと同じように、お人よしで、ウヌボレが強いのよ。欠点を見せたがったり、欠点を美点のように見せたがったり、みんな、きらい。偉くない人はウヌボレ屋じゃないから、欠点は隠さなければいけないと思うのよ。それで、いつもお化粧しなければいけないと思うのよ」
 記代子はいくらか亢奮して口をつぐんだ。それは言葉の表現が思うようにできないためのようにも見えた。グラスをほして、
「でましょう」
 青木をさそって、立ち上った。
「いかほどですの」
「ここは、いいの」
 記代子は笑って、
「そんなこと、なんにもならないことよ」
「まア、いいさ。ぼくの昔の奥さんの思うようにさせてあげたまえ」
「そのワケがあるの?」
「物事の本当のワケは誰にも分りゃしないのさ」
 今度は青木が記代子を押して外へでた。

       五

「どうして、お金払わせなかったの? なぜよ」
 外へでても、記代子はきいた。ただごとならぬ面持に、青木は苦笑して、
「つまり、ぼくの昔の奥さん、ぼくをあわれんだのさ。たまに会ったんだ。あわれまれてやらなきゃ、昔の奥さんのお顔が立たんじゃないか。今晩だけのことだから、あなたも我慢して、つきあってくれたまえよ」
「あわれんでもらいたいの」
「彼女があわれみたいのさ。だから、あわれまれてあげなきゃいかんじゃないか」
「うそよ」
 記代子の否定は激しかった。
「うそだの本当だのと争うほどのことじゃアないやね。あなたのお気にさわったとすれば、ぼくがナイトの作法に未熟だったというだけのことさ」
「うそです。私が礼子さんをやりこめたから、あなたは礼子さんをかばってあげたのよ」
「こまったな。どうも、インネンをつけたがるお方だ。なア。記代子さんや。やりこめるッて、あなた、別にやりこめやしないじゃないか」
「いいえ、やりこめたわ」
「どんなふうに?」
「礼子さんは少女趣味よ」
「それは、たぶん、当っていますよ」
「だから、やりこめたじゃないの」
 この少女のチグハグな論理の底に、何物があるのだか、青木には見当がつかなかった。記代子はまだ幼くて平凡な娘だ。しかし彼女なりに礼子を一応観察してはいる。だが、観察の根底にどれだけの心棒があるのか。いったい、なんのために礼子の酒場へ自分をさそいこんだのか、それが青木にはわからなかった。
 青木は不キゲンな記代子の肩に手をあてて、慰め顔に、
「なア。記代子さんや。あなた、なぜ、昔の奥さんの店へぼくをつれこんだのさ。ぼくが、あなたをいじめたからかい。あなた、本当に、ぼくがいじめたと思っているの?」
 記代子は答えなかった。
 あまり沈黙が長いので、ふとその顔をみると、たしかに涙にぬれているのだ。夜の灯のせいではなかった。
 青木は放二を思い描いた。それがこの少女の胸をいかに惑乱せしめているであろうか、と。いたましい思いがした。しばらく言葉をかけるのも控えていたが、
「なア。お嬢さんや。ぼくが毎日きまったように放二さんを誘うのはだね。あなたと放二さんが昔のようにむつまじい一対であれかしと願っているからだよ。あなた方は銀座でも人目をひく一対だった。そのような美術品をまもるのは側近の年寄の義務というものさ。ぼくの善意を素直にうけてくれなくちゃアいけませんよ」
「ひどいわ」
「なぜだろうな。ぼくには、あなたの云うことが分らないよ」
「放二さんは知ってるわ。だから、あなたが誘っても、ついてこないわ」
「なぜ、ついてこないの?」
「私にきらわれてること、知ってるから」
 青木が言葉に窮していると、記代子は彼をさえぎるように立ち止って、
「私、子供は、きらいよ。子供なんか、つまんない。私、青木さん、好き。なぜ、察して下さらないの」
 記代子は青木を見つめていたが、にわかに振りむいて、駈け去った。

       六

 記代子の気まぐれな感傷だろうと青木は思った。放二によせる胸の思いが、迷路をさまよって出口をふさがれているせいだ。
 翌日、青木は深くこだわらず、出社した。記代子の様子にも、ふだんと変りは見えなかった。
 午後になると、どの部屋も暑くなる。青木はトイレットへ顔を洗いに行く。いつもの彼の習慣だ。ゆっくり顔を洗って、ふと隣りをみると、水を流して、手を洗うフリをしながら、こッちを見ているのは記代子であった。
「ヤ」
 顔をぬらしているから、物を云うことができない。タオルで顔をおさえる。ふき終ると、視線がかちあった。記代子の目は、食いこむようであった。
「今日、放二さんをさそったら、承知しない」
 言いすてると、すぐふりむいて、立ち去った。昨夜のように駈け去りはしない。もっと確信にみちて、落ちついた態度であった。
 偶然の出会ではない。青木がトイレットへ立つとき、記代子は部屋にいたのだから。記代子は追ってきたのだ。
 青木が部屋へもどると、記代子の姿は見えなかった。
 記代子が戻ってきた。
「ライターかして」
 笑いながら、青木に云った。ライターをかりて、自分のデスクへもどり、タバコに火をつけた。イスにもたれて、タバコをふかしている。まもなく、むせびはじめた。タバコをすったことがないのである。苦笑して、火をもみつぶした。
「ハイ。あげましょう」
 ピースの箱とライターを青木の方へ投げてよこした。
 青木はかなり窮屈な思いにさせられた。記代子の言葉にこだわったのだ。そして、放二によけいなことを話しかけた。しかし、帰り仕度をするときには、放二を誘うことができなかった。
「ノドにつかえていたようね。放二さんを誘う言葉が」
 記代子はあとでひやかした。
 青木は浮いた気持にもなれなかった。のむビールのにがさが浸みるばかりである。
 酔いがまわると、腹をすえて、
「記代子さんや。長平さんの姪御さんだけのことはあるよ。平凡なお嬢さんのような顔をして、頓狂なカラ騒ぎをやらかす人だ。しかし、とにかく、文学的でありすぎるよ。いかに良き人を思いつめたアゲクにしろさ。痴話喧嘩の果に、ぼくのようなオジイサンを口説くのは、ひどすぎますよ。外国の小説や映画にはありそうだがね。女王だの公爵夫人というようなお方がさ。王様だの公爵と痴話喧嘩のあげくに、奴隷だの
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