女の陰から、キッピイがヌッと現れた。彼女は青木を睨みつけた。
「ヤ。キッピイさん。待ってました。そうでしょうとも。分ってましたよ。あんたが笑顔じゃ迎えてくれないだろうということはね」
キッピイは立ったままだった。
「まア、かけなさいよ。はるばるお慕いして訪ねてきた男を、ジャケンに扱うもんじゃありませんよ。な。笑ってみせてくれよ。一秒でもいいや。ぼくを忘れたかな。大庭記代子嬢のカバン持ちさ。覚えているだろうね」
キッピイはイスにかけて頬杖をついて、ジロジロ青木を見つめた。
「どうして笑ってみせなきゃいけないのさ」
「難問だね」
青木はキッピイを観察したが、酔っているようでもなかった。
六
「言葉が足りなかったんだな。あなたが笑ったら、さぞ可愛いくて、ぼくはうれしい気持だろうと云いたかったのさ。あなたは観音様に似てるんだ。ちょッとリンカクが尖っているのは、職人が南蛮渡来なんだなア。腰の線が、又、そっくり南洋の観音様さ。な。南蛮渡来だって、日本なみに、笑ってくれたっていいだろうね」
彼はビールをのみほした。そして、益々、好機嫌であった。
「こんなことを言いにきたんじゃなかったんだがな。ま、いいや。何から喋らなきゃいけないという規則があるわけじゃアないんだからな。ねえ。キッピイさん。そうだろう。ぼくはあなたに会えて、うれしいのだ。ぼくは、あなたの頬ッペタを、ちょッと突ッついてみたいね。普通、そんな気持には、ならないもんだね。接吻したいとか、肩をだきよせたいとか、そういう気持になるもんですよ。一般に、女というものに対してはね。ところが、キッピイさんは、ちがうね。ぼくは頬ッペタを突ッつきたいんだ。チベットの女の子は、コンニチハの挨拶にベロをだすそうだね。べつに頬ッペタを突ッつかなくとも出すんだとさ。だけどさ。南洋の観音様は、こッちの方から頬ッペタを突ッついてあげて、コンニチハの挨拶がわりにしたいんだなア。ベロをだせというんじゃないんだぜ。最もインギン、又、愛情こまやかに焚きしめた礼節としてですよ」
青木はビールをのもうとした。頬杖をついてジロジロ目を光らしていたキッピイが、片手をのばして、青木が口に当てたコップを横に払った。コップは壁に当って、落ちて、割れた。キッピイは睨みつけて、
「じゃア、私の頬ッペタ、突ッついてごらんよ。タダは、帰さないよ」
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