書いてあるわ」
「知らなかったな。そんなことが、あるのかなア」
「若い者ッて、年長の人に心の悩みを打ちあけないもんよ」
 と、数え年十九の隠者は体験をヒレキして、夢見るような、あどけない目をした。
「アベコベねえ。リュウとした凄いようなミナリの女が、ドタ靴の男のなけなしの給料を貢がせるんだから」
 そして、又、こうつけたした。
「そんなものだわ、人生は。妙なものなのね。私たちだって、男を喜ばすために稼ぐ気持になることもあるわ。好きになッちゃったら、ハタからはミジメなものね」
「君も経験があるのかい」
「私は、ないわ。でもね。男の人をダメにしたことがあったわ。私はね、なんでもないと思ってるうち、そんな風になったの」
 この子のために三人の男が死んでるという、それを長平は思いだしたが、ルミ子の澄んだ目になんのカゲリも見えなかった。
 長平は朝早く目をさました。ルミ子はよく眠っている。目をさます気配もなかった。
 部屋の片隅にころがっているルミ子の日記帳をとりあげて、ひらいてみると、誰々にタテカエいくら、誰々からカリ、誰々から返金。日記の文章はどこにもなくて毎日の記事は貸借のメモだけだった。
 その日の午《ひる》には、長平自身の女のことで、ヤッカイな会見があるのである。放二のような無垢な青年に女出入りの交渉などさせたくないので、不便を忍んで長平ひとりで捌いてきたが、今日からは放二にも手伝ってもらうことにしようかと長平は考えた。


     恋にあらず


       一

 正午ごろ、長平は放二をつれて、銀座の中華料理店へ行った。
 すこしおくれて、青木音次郎がきた。若いのに一クセありそうなカバン持ちをつれている。
「この選挙に立たされそうでね。郷里の有志にしつこく推されてるんだ。青年層の七割まで棄権するそうでね。ぼくがでると、その半分ぼくに入れる、まア、棄権防止さ」
 いきなり、こう云って、高笑いした。
 長平は呆れて旧友をうちながめた。おろしたてのギャバジンの背広をきている。当節、新調の背広は目立つものだ。彼のは二十代がきるような明るい紺の、ピンとはった肩には仕掛けがありそうな、ショオウインドウの洋服と向い合っているようだった。
 終戦まで私大の教師をしていたころは、書斎の虫のようにジミな男であったが、そのころの面影はどこにもない。
「君」
 と、青木は連れの青年
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