ア、歩きようがないじゃないか」
「うるさいッたら!」
記代子は激しくふりむいて、とびかかるように、手で青木の口を抑えた。青木はハズミをくらって、反射的に防禦の手をあげてしまったが、その小指が記代子の口にふれた。記代子は青木を見つめたが、力いっぱい小指をかんだ。
「痛……」
青木は苦痛にたえようとした。噛まれた指をハシタなくひっこめるのをこらえようと努めていると、記代子は再び、力いっぱい噛んだ。
青木は指が噛みきられたように思ったほどだ。あまりの痛さに茫然として、たたずんだが、記代子にみじめな思いをさせては、と、指の傷をあらためようとせず、ハンケチをとりだして笑いながら脂汗をふいた。
記代子は一部始終を見つめていたが、
「指みせて。どんなになった?」
青い歯型がハッキリついて、血のにじんだところもあった。
「痛かった?」
「うん」
「なぜ痛そうにしなかったの?」
「しなかったかい?」
「泣くかわりに、笑ってみせたわ。なぜ、指の怪我をしらべてみようとしなかったの?」
「痛すぎて、ボンヤリしたのさ」
しかし記代子は見ぬいているのだ。青木が記代子をいたわるために、指の怪我すらしらべようとしなかったことを。
青木の胸はふくらんだ。
「君、ぼくの指を本当にかみきるツモリじゃなかったの?」
「そうかも知れないわ」
青木は記代子をだきよせて、くちづけした。そして明るい道まで送って、
「ねえ、記代子さん。ぼくたちは毎日たのしい四方山話をしようよ。すると、二人の心が通じあってくるよ」
「ええ」
記代子はニッコリ笑った。そしてスタスタ行ってしまった。
九
青木はいったん宿へもどったが寝つかれなかった。思いたって、放二のアパートへでかけた。
放二はまだ帰っていないから、マーケットのオデン屋で一パイやりながら待つことにした。ここにいると、帰宅の放二をよびとめることができるのである。
「放二さん、いつも帰りがおそいってね」
「ええ。毎晩あたしが店を閉めかけるころにね」
「お酒に酔って?」
「いいえ。ビール一杯で真ッ赤になる人だから、一目で見分けがつくんですが、よくねえなア。とにかく人間、お酒をのんでるうちが花ですぜ。グッタリ疲れきってお帰りでさ。お仕事が忙しいんですッてね」
「ぼくは御覧の通りだがね」
「上ッ方はね」
「冗談云ッちゃアいけませんやね。北川
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