別に知らなくともいいことらしい。だが、ねえ、お嬢さんや。ぼくの昔の奥さんは、たしかに文学的で、少女趣味ですよ。しかし、あなただってさ。文学的なお嬢さんに相違ないと思うんだね。なぜなら、現世に生きる人間というものは、一応常識というものを思考の根抵におかなければいけないものですよ。だが、記代子さんは、限られた小さな現実を全部のものにおきかえているね。思考の根が、常識でなくて、あなたを主役にした劇なんだ。夢なんだよ」
「それでいいと思うわ。じゃア、あなたは誰のために生きているのよ。放二さんのためなの? それとも別れた奥さんのためなの?」
「それは、人生というものは、云うまでもなく自分のためのものさね。しかし、自分の位置、限度というものを心得なければいけませんよ。あなたはツボミのようなお嬢さんだし、ぼくは花ビラの散りかけた老いぼれですよ」
「そんなことが理由になるのは、ほかのことがあるせいね。正直に云えないことがあるからよ」
「なア。記代子さん。もっと打ちとけて、茶のみ話をしようよ」
「イヤ」
記代子は立ちあがった。
八
青木は記代子を送ってでた。
「なア。記代子さんや。こんなことで、怒ったり、怒られたり、よそうじゃないか。毎日、ノンビリ、コーヒーやビールや焼酎でものんで、バカ話をし合って、たのしく過そうじゃないか。そうするうちに、二人の心が通じ合うようになると思うんだがね」
肩を並べて歩きながら、青木は懇願した。つとめて情慾を殺すには、そんな態度をとる以外に仕方がないのだ。そのくせ、立ち去る記代子を立ち去るままに放っておくことができないのは、可憐な記代子に断ちがたいミレンのあるせいだ。
相剋する二つの心を、興ざめた目で見送る以外に手もない。
「なア。よく考えてくれよ。ぼくは叔父さんの友だちなんだぜ。叔父さんというものは、あんたのオヤジの兄弟じゃないか。オヤジだの、オヤジの兄弟なんてものは、あなたの友だちと違わアね。ぼくだって、そうなんだ。ぼくは、あなたにとって、甚だ親切な友だちさ。あなたのオヤジや、オヤジの兄弟のようにね。しかし、本当の友だちというものは、こんなに親切ではないものなんだ。たとえば、若い者同志はね。ここのところをカン違いしちゃいけないよ」
「喋るの、よして! こんど喋ったら、駈けだしちゃう」
「こまったな。ちょッとぐらい、喋らなきゃ
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