いていた。
「残業、又、残業か。ジミな人だな。顔色が悪いぜ。お嬢さんが淋しがっていらッしゃるじゃないか。よく働き、よく遊べ、さ。ねえ、記代子さん」
 記代子は帰り仕度にかかりきって、顔もあげず、放二をさそいもしなかった。
「じゃ、お先きに」
 二人はそろって先にでた。
 せつ子の新社は多忙であった。けれども雑誌編輯部にくらべれば、出版部は大きにヒマな方だ。放二も、記代子も、青木も、出版部をまかされていた。そして、もと放二たちの編集長の穂積が出版部長であった。
 せつ子はお義理で入社させた連中をみんな出版部へ集めたのである。それは雑誌の編集に特に抱負があったからで、編集上の見識や才腕を特に見込んだ者でなければ、雑誌部へは入れなかった。
「青木さん。ビール、のませる?」
「やむをえん」
「たびたび、相すみません」
 青木と記代子は、ちかごろ、たいがい、一しょであった。青木は、そのことで、ほろにがい思いをしていたのである。
 記代子は放二を怒っているのだ。なるべく残業するようにして、一しょに遊ぶのを避ける様子があるからである。青木はそれを見かねて、若い二人を仲よく遊ばせてやるために、時々二人をさそったが、放二はそこからも身をひくようにして、青木と記代子二人だけで一しょに歩くのが自然になった。青木はつとめて放二を誘うようにしたが、記代子は放二を誘わなくなった。
 暑気が加わってから、放二のからだは、めっきり衰えていた。二度、軽く血をはいたことがあったが、それを誰にも悟られぬようにしていた。
 少年時代から病弱で、寝たり起きたりの生活はウンザリするほど重ねてきたが、養父母の仁愛ふかい看護の下で、彼が体得したことは忍耐であった。
 あるとき、放二はオリムピック・マラソン選手の戦記をよんだ。彼らは時々ある地点に於ては、激痛のあまり知覚を失ってしまうのだ。手も足も動かなくなる。放置すれば、倒れる一瞬である。天水桶をみつけて、すがりつく。頭から、かぶっているのだ。又、歩きだす。知覚がもどり、彼は走りだしている。苦痛を超える、よろこび。坂がある。果して、駈けあがる力があるだろうか。疑いに負けてはならない。あらゆる苦痛をのりこして、走りつづけなければ勝つことができないのである。
 一番健康な人のマラソンと、病人と、よく似ている、と放二は思った。マラソン選手は高熱のウワゴトの状態で走りつづ
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