ハハ。つけたんだよ。梶女史に会いたくってさ。なにも、あなた、ぼくがどれほど落ちぶれたって、あなた方がシッポリなんとやら、それを突きとめるためにつけるほどケチな根性はもたないさ。ねえ。そうだろう。女房があなたが好きで先刻逃げられたぼくだもの、今更ねえ。だがさ。待合の陰にかくれて一夜をあかして、あなた方がついに御帰館なきことを知らざるを得なかったぼくの胸中というものは、甚だ俗ではあるが、万感コモゴモでしたよ」
それを言ってしまうと、青木はかえって晴れ晴れしたようであった。彼は明るく笑って、
「それから、ぼくが、どうして生きていたと思う? いやさ。恨みを述べるわけじゃア、ないですよ。アベコベなんだ。その一夜が、転機なんだよ。万感コモゴモの次に、ホンゼンとして心機一転。それほどでもないが、なんとかしたと思いたまえ。ここ一週間、ミミズみたいに、どこか暗いところを這いずりまわり、のたくりまわってきたがね。実はね。今日は又、君の一筆が所望なんだ」
彼は益々明るく笑いたてて、
「実はね。梶せつ子の新社へ一介のサラリーマンとして採用してもらいたいんだ。恨みも迷いも、すてたんだ。それを捨てるのに、一週間、かかったんだよ。ねえ、君。考えてみれば、ほかに、オレみたいな老骨を拾ってくれる会社はないじゃないか。誇りなんぞ、持ってやしませんよ。生きるには、食わねばならず、食うには、どこかで拾ってもらわざるを得なくなったからですよ。枝葉末節を語ればキリがないが、荒筋はそれだけさ」
「働くポストは」
「門番でも、事務員でも、編集でも。長と名のつくものを望まないよ。女房に逃げられた男が、ふった情婦の店で働くのに御慈悲の長は所を得ていませんよ。まア、当分、考えることを探すわけさ。もし人生に考える価値のあるものが在ったとしたらね」
長平はせつ子に当てて手紙を書いた。青木を使ってくれという依頼の。なぜなら、そのことに不賛成ではなかったから。
「ありがとう。女房が、イヤ、前女房が、銀座のバーで働きだしたよ。今度上京したら寄ってくれよ。たのまれたんだ」
そして青木は立ち去った。
翌朝、長平は東京を去った。
娘ごころ
一
「たまには、つきあえよ」
と、青木が放二をさそったが、
「でも、校正を急がなければなりませんから」
放二は明るい微笑で応じたが、額や頸には脂汗がう
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