の外套にはいさゝかの傷みも残されず、小さな皺も、ひとつの埃すらもとゞめてはゐなかつた。太平はもはやキミ子の肉体に憑かれてしまつた自分を知つた。そしてキミ子の肉体が外套にこもつて頭にからみついてゐるのを知つた。昨夜は何事もなかつたやうなキミ子の顔を見るよりも、何事もなかつたやうな外套を見出すことが不思議で、暗い情慾の悔恨と、愛情のせつなさをかきたてられるのであつた。
この一夜の飛躍の中で、太平には全てが分かつた。舟木も間瀬も花村も小夜太郎も富永も、過去に於て(あるひは現在すら)キミ子と関係をもつ人々なのだ。青々軒とヒサゴ屋だけが、たぶん例外なのであらう。太平は情慾の一夜が庄吉の影によつて殆ど乱されることのなかつたのを思ひだしたが、今となつても庄吉の友情を裏切つてゐる悔恨がさして浮んでこなかつた。それよりも、舟木や間瀬や小夜太郎らの情慾に痛烈な敵意を覚えた。
「みんな知つてゐるよ」
と太平はいつた。それは非難の意味ではなく、すべてを知つた上での愛情を知らせるための意味だから、彼の顔にはやはらかな微笑があつた筈だつた。けれども、キミ子の顔は曇り、目をそむけた。再び顔をあげて太平を見つめた
前へ
次へ
全31ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング